内ヶ巻(小千谷市川井)の集落で高場山を正面に見て右手を見ると、川口方面に見事な水田が広がっていて、見とれてしまいます。後方には魚沼三山も望める絶景です。しかし、内ヶ巻にこの美しい水田が出来るまでには多くの苦難があったそうです。苦難の歴史を物語る石碑が建てられており、毎年7月11日に石碑祭があるとのことで参加することにしました。。
 ■日 時:2015年7月11日(土) 9:00 
 ■場 所:新潟県小千谷市内ケ巻  彦市商店の近く
 ■参加者:M山、○

開梱碑、石碑の位置

 越後川口駅から内ケ巻・田麦山方面に向かいます。JRだと飯山線内ヶ巻駅(無人駅です)の近くです。

 「農事法人うちがまき絆」の前を通って、彦市商店(超ローカルですか?)の前の道路脇に石碑がひっそりと立っています。よほど気をつけて見ないと車ではあっという間に通りすぎてしまいます。
新田開拓の石碑

 見事に広がった水田を見守るように石碑は立っています。この石碑は大正7年に建てられたものです。

 じっくりと眺めてみると、正面には「新田開拓者」、「川上半右衛門君之碑」、「北魚沼郡長正七位 加賀谷朝蔵謹書」とあります。
 裏面には開発工事の沿革が記されています。それによると、慶応 3 年(1867)8 月に工事が始められ、4 年後の明治 4 年 11 月に完成し、その功績が認められ、大正6年 11月に役所より表彰を受けたとあります。

 屋号「半年」家の第 12 代当主である川上半右衛門さんが私財を投じて新田開発を始めた功績が認められたものです。

 また、この石碑を建てた発起人として真嶋英之助・佐藤保太郎・川上亀蔵の 3 人の名前があり、「金壱百円也 内ヶ巻新開地持一同」と経費も書かれています。

 その直ぐ横には現在の水田ができあがった圃場整備の石碑(「農は生命の源平成 8 年建碑)があります。
 碑の裏面には60.7 ヘクタールに 1 億 7000万円、県営ため池整備に 2 億 4800 万円と刻まれています。現在の水田が、多額の事業費で完成したことが分かります。

  (以上「川井の宝」から抜粋引用させていただきました。)


 現在の魚沼産コシヒカリの原点は開田にありました。このうっとりするような水田も昔は水もなく水田にするには相当な苦労があったことが容易に想像できます。

 水路を見るとカワニナが見えます。この時期、夜になるとホタルが乱舞するそうです。
 この素晴らしい環境にまで育てていただいた祖先に感謝ですね。

 お神酒を頂きながら(私は運転手なので頂けませんが)、村の方としばらく歓談させていただきました。村民の中に、昨年高場山トレランコース整備に協力して頂いた方がいて、僕のことを覚えてくれていました。嬉しかったですね。一気に緊張が溶け、和やかになった瞬間でした。


 お神酒を頂いてるすぐ脇に面白い幟がありました。「カメムシ警戒中」と書いてあります。思わず、くすっとします。この辺りはカメムシが多くて、どの家にも沢山住んでいます。村民は「カメムシ?ああぁ、お友達だから」と言って放置しています。そっとしておけば臭くないし、最悪は触覚?部分を摘めば臭いは出しません。しかし、稲には有害なんでしょうか?

 カメムシの他に、この地方には「ブト」と呼ばれるコバエみたいなのがいますが、M師匠はなんともないそうです。免疫ができるんでしょうか。
 そういえば、ヤマビルにもM師匠はびくともしません。血を吸っていても放置しています。(笑)



開田碑

 石碑の場所より県道を挟んだ東側にもう一つの開田碑が建てられています。
 大正 11 年 4 月
に建てられたもので、正面に「故川上半右衛門君、故佐藤重右衛門君、故篠田市兵衛君」の 3 名の名前が刻まれ、顕彰されています。
 内ヶ巻地区では毎年 7 月 11 日を開墾記念日として石碑祭りを行ってきました。その日は2ヶ所の石碑の前にほぼ全戸の人々が集まって神主のお祓いを受け、御神酒を飲みます。
 水田にかかる用水は江戸時代より田麦山方面の小高より4kmほどの距 離を開削して水を引くようにしました。また、関番が決められ、用水から田へ水を入れる時に立ち合ったそうです。用水普請(ようすいぶしん)の作業は6班に分けられ、修繕場所はクジ引きで決まり、資材経費や人足賃は秋になり「新開割」として各戸に割り当てられました。しかし、その用水路も中越大震災で大きな被害を受け、経路を変更するなどして災害復旧されました。

   (以上「川井の宝」から抜粋引用させていただきました。)
 
 これまで話を聞いたのは田麦山の人がほとんどです。水路(トンネル掘り含む)や工事した時の苦労話や水確保のトラブルがあった模様です。これからは内ケ巻の人にもたくさん話しを聞いてみたいと思います。
 中越地震で水路の一部が崩壊し、現在は少し別のルートを通してあるとも聞きました。

 というわけで、内ケ巻の祭りに田麦山からいきなり押しかけてお神酒を供えさせていただきました。歴史的にも画期的な出来事であったのかもしれません。内ケ巻の村民からは概ね好意的な目で迎え入れられたと思います。ちょっと挨拶をさせていただきましたが、この素晴らしい自然環境を見渡していると思わず胸がつまりました。


 ヨソモンは静かに歴史の重みを噛みしめてから来い、と言われているような複雑な気もしますが、いずれにしてもお隣同士、力を合わせて頑張って頂きたいと願って深く腰を折りました。
   

妙高寺

 石碑祭の開始時刻を間違えました(8:00と聞いていたのですが9:00でした)ので、待ち時間の間に妙高寺を訪ねてみます。

 移築前は内ケ巻城の近くにあったと思われます。丸山建設の前を通って車で5分ほどです。
妙高寺
 
 108段の石段を登ります。二日酔いの体にはひどくこたえます。(笑)
 「国宝 愛染明王」の由来が書いてあります。残念ながらご開帳の時期は限られていますので、いきなり行っても見ることは出来ませんので、本殿をお参りするだけです。

 田中大蔵(内ケ巻城主)の墓があります。

 お堂もありました。

 よく手入れされいてきれいなお寺でした。
 次回はご開帳の時に来れればいいですね。



 -----以下はHPからの抜粋です。-----
 妙高寺は740年余り前の鎌倉時代、1265年(文永2年)内ケ巻城主(現在の小千谷市川井内ケ巻)で新田氏の一族 田中大炊介源義房(たなかおおいのすけみなもとのよしふさ)により創建された曹洞宗の寺院です。

 寺伝によると本尊愛染明王はその昔、伊豆の田中の荘(静岡県)に安置されており、配所にあった源頼朝が源氏の復興を願い深く信仰されていたといわれています。
 その後、一族の新田氏が供養をしていましたが、田中大炊介が内ケ巻城主となる際、この地に一緒にお移しし一族の興隆と領民の繁栄を祈願し妙高寺を建てました。

 文禄5年(1594年、安土桃山時代)長岡、洞照寺より果翁良珊(かおうりょうさん)和尚が入山、それまでの真言宗より曹洞宗に改宗するとともに愛染明王の御本誓の尊さ有難さをさらに教え広めました。 徳川五代将軍綱吉の時代、天和3年(1683年)には幕府より除地高10石余を明王の永久供養のもとでにと附与されました。

 この間、明王は広く十方に信仰され、参詣する人は後を絶えませんでした。御霊験、御利益も数知れません。
 また、妙高寺は妻有(つまり)百三十三番霊場の百十四番札所ともなっています。(妻有:十日町市を中心とした新潟県南西部地域の古称) 大正13年火災により堂宇を焼失し、それまで山の上にあった寺を現在の場所に移転し今日にいたっています。
 山号の駒形は当初の寺の建てられた山の形が名馬の走る姿によく似ていたことにより、寺号の妙高は寺の位置が非常に景勝の地であり霊気が漂いあたかも須弥山のようだったことによります。
※注:須弥山(しゅみせん、サンスクリット語でスメール山)とは仏教の世界観の中で中心にそびえる山のこと 「須弥」とは音訳で意訳では「妙高」


 愛染明王当山本尊愛染明王は像高119センチ、台座からは約210センチ。ヒノキ寄木造りで彩色が大変美しい仏像です。 お姿は三眼六臂(さんがんろっぴ)〜眼が3つ、腕が6本〜髪を逆立て、頭には獅子の冠をいただき、宝瓶(たからがめ)、紅い蓮華の台座にお坐りになっています。
手のうち第一手は息災を表し、左手には鈴、右手には五鈷(ごこ)を持ち、第二手は愛敬(あいきょう)和合(わごう)の大切さを表し、左手には弓、右手には矢を持ち、第三手は迷いや誘惑に打ち勝つことの大切さを表し、左手は固く握りしめ、右手には蓮の蕾をを持っています。
全身は赤色で三眼をみはり、口を大きく開いた怒りの表情で、心の迷いや悩みを焼き尽くし、すべての人々をお救い下さる仏様です。
台座とご光背は大正13年火災により焼失しましたが、昭和10年奈良の仏師、新納忠之介の手により復元されました。
昭和10年4月文部省より国宝に指定され、戦後、昭和25年には文化庁より国重文に指定されました。
また、愛染明王は、昔より「あいぜんさま、あいぜんさま」と親しまれ、家内安全、商売繁盛、厄除け開運、交通安全、縁結び、病魔調伏、身体堅固、災難消滅、染色、造醸の仏様として妙高寺開創以来740年余り多くの方々に信仰され続けています。