JAPANESE edition
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ついにURL完成!
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…ただし、文章からあなたのアドレナリンを活性化させてねっ。
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Y. Kerry YOSHIMOTO
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(本文開始↓)
Street Voices on Earth! 38
–Side Edition #1-
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その、ちいさな手
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15th September 03
BY Y. Kerry YOSHIMOTO
相も変わらず、世界のどこかで戦争が起き、その被害に遭う数々の人々、また、21世紀になっても慢性的に飢餓の絶えない地域に生きる人々…こういった彼らの姿を克明に伝えようと、世界中の写真家やフォト・ジャーナリスト達による作品が、様々な場所──TVや写真集や講演会などで、頻繁に公開されている。中でも、特にそこに描写される子供たちの姿は、見る者全ての心に、何かしらの大きな印象を与える。それは、世界のどの地域で撮られた被写体であれ、そこに映る子供たちの透き通った瞳、無垢の笑顔、そして『こんな幼い子供たちでも一生懸命に生きている』という、付加価値のついた感銘を、見る者全てに与える力を…持っているらしい。
そういった間接的な被写体から受けた印象を、「もっと己の実感として確かめてみたい」…と、ある者たちは、実際にその写真が撮られた開発途上国の地へと足を運び、それこそチャンスがあれば、その人々──特に子供たちに直に会って、更に大きな感動を受けてくる。
幼い子供たちが、無邪気に彼らを取り囲み、じゃれあい、愛撫を求め、笑顔が絶えない笑い声を振りまき、そして何より、『その澄んだ瞳を実際に見たのは、自分の国では、とんと縁遠いものだった』──と、大抵の者は、自分の心に喜びと幸せと、少なからず淋しさを受けてくる。
いつまでもくっついて離さない子供たちのその小さな手は、何処までもいつまでも、あたたかく愛しいものでしかない。そして、そのちいさな手の記憶をいつまもいつまでも、そして大事に大事に、大人たちの心の宝物にしていくのだ。
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世の中の大人の中には、子供が大好きな人、普通に好きな人、まあまあ好きな人、ちょっとだけ好きな人、全く好きになれない人…と、さまざまだ。
そしてまた、普遍的な社会の中で、幸か不幸か『母親』なるものになることを、生まれた時から前提条件とされている女性は、概して「子供好き」と世間一般で考えられている一方で、それとは正反対に、子供が毛虫よりもダイッキライ!と豪語する女性もいる。翻って、母親になることをまずは条件とされていない男性は、一般的に、子供に対して無関心な場合もあれば、母親という役割がまるで天職のように子供が好きな男性もいる。
そんな大人の価値観の中で、それでもいわゆる貧しい国に住む子供たちの、ちいさな神々しいその笑顔に対して、「そんなものに、この世に混濁するしがらみを払拭させる力は一切ない」…と断言できる人は、まずいないだろう。
それほど、子供たちの笑顔はいとおしいもの。普段、自分達の周囲ではなかなか見られなくなった社会に身をおく者ならなおさら、純粋無垢なその笑顔に、一瞬でも心を奪われてしまうものなのだ──
ところで、先進諸国社会において、なぜ我々の周囲にもいる同じ年子の子供たちに、昨今、それと同じ印象を持つことが難しくなったのか?
これは恐らく単純に、概して先進諸国においては、周囲に氾濫する情報過多が生んだ結果が、その一つとも言える。大人は、いくら多くの情報が錯綜した社会においても、それを選ぶことのできる知能を持っている。だから、その情報過多に振り回されることが比較的少なくて済む。(情報に振り回されてまんまと罠にはまる、または泣きを見る大人も勿論いますが…)
ところが子供たちにはまだその選択能力が備わっていないにも拘わらず、情報の流れに留まりを見せることのない現代社会においては、いわゆる『頭でっかち』『物知りバカ』になる危険性を100%完全に回避する術は、皆無と言っても過言ではない。ゆえに、本来、幼少時代のわずかな時間にだけ備わっているはずの無垢な感情や純粋さは、あっという間に彼らの心から拭い去られ、大人びた邪推の精神だけが彼らの心に育まれがちになってしまうという傾向が存在することを、今の大人たちは否定できるだろうか?
しかしそれとは正反対に、貧困が絶えない開発途上諸国に住まう子供たちの中には、そういった情報過多になるほどの知識どころか学識さえ与えられる機会に乏しい点が、非常に大きく懸念されている。子供たちの中の物事を考える能力の欠落については、その社会全体で大いに問題があり、それがゆえに、偏狭の情報に判断が左右されがちになる(例:低賃金の児童労働への搾取、幼年児童売春の強要)。
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世の大人たちは、なぜこれほどまでに、『純粋無垢』な感情に飢えているのだろうか。
その答えを明らかにするには、学説的には余りに多くの見解と、一般的にはそれぞれ個人の考えがあるので、ここでそれを明らかにすることは大変難しい。ただし、その純粋無垢な感情は、実は何も貧しい開発途上国に赴かなくとも、そして先進国の現代の子供たちに無理強いをしてまで幼さだけを要求しなくとも、そしてまた、夫婦の間で授かった自分たちの子供だけに見られる「目に入れても痛くない情愛」を特出しなくとも、その純粋無垢な感情は、実は『そのまんま』として我々の社会にも存在しているのだ。
世の中には様々な『隔たり』(例:病気、社会的偏見・差別)が存在し、実に多くの人々がそれらに日々頭を悩ませて生きている。その中でも、こういった『隔たり』に常に気遣わされ(もっと大げさに表現すればおびやかされ)続けている、いわゆる『障害者』といわれている人々の数は、全世界人口の10%を上回るとされている。
さらにその中のでも知的障害の一つ、例えば、『ダウン症候群』というものを、皆さんはどこかで耳にしたことがないだろうか? この情報過多の社会に住んでいるのなら、一度は過去に聞いた覚えがあるに違いない。
【ダウン症候群】
常染色体の異常によっておこる先天的な奇形で、精神遅滞と発育障害を伴う症候群。頭蓋は通常の成長に対して小さく丸く、平らな額が張り出し、目がつりあがり、極端に小さな顎などの、特有の顔つきになることが特徴。
参考文献: MICROSOFTエンカルタ百科事典2000; 平凡社大百科事典
このダウン症候群にかかっている少年少女を目にした時、非常に残念ながら、ある人は彼らを『こびとのような奇形の人』と感じてしまうかもしれない。更には、彼らのその実年齢を聞いて、「えっ!?」と驚きの声を上げることもあろう。上記にあるように、この症候群にかかった人たちは、どこかしら発育障害を持ち、年齢の割には背丈が小さいことが多い。更には精神遅滞の症状が現れ、いくつ年齢を重ねたとしても、知能やその他の判断力は、世間の尺度で言うところの『年齢並みの平均より落ちる』と言われることもしばしばある。
ただしそのままでは、この加速を続ける現代社会で生き抜いてゆくことには困難を抱えることがあるため、その年齢の個人個人にあった学校教育や社会訓練を受けていく、各地域でのサポートも行なわれている。──しかしそれでも、知能は幼児の幼さを残す傾向があることを完全には否定できないために、社会の動きに対する判断(例:買い物をする、交通ルールを守る)と、本来個人の持つ感情とのアンバランスが、世の中の偏見と差別を生みやすい原因になっている。
人は一般的に、視界に入ってくる情報から、物事を判断している。人に対しても同じだ。それゆえ、例えば上記のような知的障害者に出くわした時、心やさしい者なら「何か手助けできるかな」とか考え、心まずしい者なら「面倒な事には巻き込まれたくない」と、何も言わずにその場を避けて通り過ぎようとする。
いずれの反応も『人』ならではのものであり、冷静に見た場合において、日常的にはどちらの反応もありうると考えられる。しかしそのいずれにおいても、概ね、まずは視界に入ってくる情報から判断された反応であり、その瞬間、その知的障害を持つ彼らの『心』についてまでは、考えが及んでいない。
彼らは確かに、赤ん坊の頃から少しずつ精神遅延の傾向が見られ、それゆえ情報過多の社会で暮らしていたとしても、独自の力だけでは、その情報の選び方や取り込み方、使い方を知らない場合が少なくない。彼らの周りに、その『選べ得る情報』が存在していることさえ彼らに知らされていない点は、国、果ては世界全体の社会的責務の欠落として大きい。悲しくも、『選べ得る情報』を、自力では自分たちの手に持つことが難しい状況は、世界の貧しい開発途上国に住む子供たちと、その立場に差はない様相を見せる。──こういった状況が、勿論、彼らにとって好ましいわけはないのだが、唯一救いなのは、知的障害者の彼らの心も、世界の貧困地域に生きる子供たちと同じ『そのまんま』──純粋無垢のままなのだ。心に国籍は関係ない。人の心は同じもの。
彼らの感情表現は、誰もが記憶にある幼い子供そのものだ。
人の手とつなぎたがったり、人の体に擦り寄ったり、じゃれたり、愛撫したり、時に誰かの体を抱きしめたくなったり…。
そっとその手を伸ばし、顔に粋(すい)の笑顔を湛えながら、まっすぐな瞳で、無色透明な答えを要求してくる。
その、ちいさな手は、何も言葉では語らない。語れない。
たとえ、口から出る言葉でさえ意味は通じなくとも、心が何かを言っている。
その、『ぎゅ…』と握られたちいさな手の力こそ、彼らの言葉…そのものだから。
(了)
参考資料:
日本ダウン症協会群馬支部・親子キャンプでのワークショップ
アーニ出版主催 『性教育と知的障害者』に関する講演&学習会
〔2003年9月13〜14日 群馬県立東毛少年自然の家、桐生短期大学にて開催〕
All reserved by SUTEMATSU 2003
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