四国霊場八十八ヶ所お遍路弘法大師の御心をたずねて
四国八十八ヶ所巡礼の基礎講座
01 始めに 02 四国とお四国
03 四国八十八ヶ所を開いた弘法大師とは 04 行基菩薩について
05 南無大師遍照金剛とは 06 お寺の開基について
07 四国病!!何の病気 08 長宗我部元親とお寺
09 なぜ88ヶ所なの 10 札所には五重塔は4ヶ所
11 札所間の距離 12 全てを巡礼するには何日くらい掛るの
13 金剛杖について 14 遍路笠について
15 四国病院なんてあるの 16 歩きお遍路について
17 職業お遍路さんてなに? 18 昔のお遍路事情
19 遍路の道しるべを建てた人たち 20
21 お寺について 22 お寺の駐車場は??
23 お寺への巡礼者たち 24 納経帳について
25 納経所について 26 接待宿利用のマナー
27 28
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始めに
「チリーン〜〜チリーン〜〜〜〜」
「ぶつぶつ・・・ぶつぶつ・・はんにゃあ・・・・・ぶつぶつ・・ふしょうふめ・・・ぶつぶつ・・」
「かあさぁ〜ん・・お遍路さんがきてるよ〜〜」

片手を広げ目の前に立て、もう一方の手には大きな鉢を持って玄関の前に立っている姿は、今も私の頭の奥底に座っている。今から50年から45年くらい前のことと思える。(昭和25〜30年)

私の小さい頃の家は、町から少し外れた農家で、本通りから5m位い入った田んぼに囲まれている、そのへんの農家と同じ普通の家であった。

母は、お米一合と少しのお金、お金といっても少しの硬貨を渡していた。
どのくらいの回数でお遍路さんが来ていたのかは、記憶に無い。
ある日のお遍路さんは、小さな私のために、半紙に墨で絵を描いてくれた事を覚えている。
だるまさんと何の動物だったかなぁ?の墨絵を私は少しの間大切に持っていたが、いつのまにか無くなっていた。
今有るのは、すっかりぼやけてしまっている私の記憶である。

もうすっかり変わってしまった今、托鉢するお遍路さんはいない。
私の本家の家も建て替えている、前の道も中央分離帯のある片側二車線道路に変わってしまっている、その当時の面影はまったく無い。

四国巡礼も今は、観光を兼ね備えた旅として定着しているように思える。
交通事情の発達、札所までの道路、駐車場の整備、山頂寺へのロープウェイなど大変便利になっている。
これに付随した、宿坊、近くに有るホテル、旅館などはサービスの行き届いた設備をしている。
四国巡礼は何時でも思い付いた時、気軽に旅のできる名所となっています。

今日の夕方も、大型観光バスに乗って来たお遍路さん達が、30階建ての国際ホテルの玄関に降り立って行く。
背中に同行二人と書かれた真っ白なハッピがまぶしい。
お遍路さんというイメージは少なくなったと私は思う。

でも、歩きお遍路さんも多く見掛ける
四国とお四国
あなたは多分四国に来た事はあるでしょう。
仕事で出張、友達に会いに、観光にとたびたび訪れたことと思います。
その時は四国に来たのです。
服装もいろいろだったでしょう、急いでいたので作業服のまま、友達の結婚式なのでドレスだった。
その時もあなたの来た所は四国でだったのです。

今度はお四国に来て下さい。
四国とお四国は違うのです、ただ四国の前に「お」という平仮名一個付いているだけですが、そこはもう「お四国」なのです。

まず、服装を整えます。持ち物も忘れずに。

始めにする事は、同行二人と書かれたハッピ、南無大師遍照金剛と書かれた菅笠、そして金剛杖。

それですでにあなたは、「お四国さん」あなたの立っている所は「お四国」なのです。

四国とお四国は違います、同じ場所ですが二つの国がそこには存在するのです。
まず体験して下さい、直ぐにほんとに直ぐ分ります。

ある本に出ていました。体験談の本ですが。(これは極端な話です)

東京の出版社の”鬼の編集長”55歳の話として。
東京から飛行機で空港に降り立ち、タクシーで1番札所霊山寺へ行き、そこでお遍路さんスタイルになり参拝をすませて歩いて2番札所にむかう途中のことでした。
その時は夏、暑い日だった。
赤いスポーツカーが歩いている私の横に止まり、茶髪の若者が自動販売機でジュースを買っていた。車には同じような若い女性がこちらを向いている。
そこらあたりで見かける普通の風景です。
ぜんぜん気にしなかったのですが、突然若者が駆け出してきて私に今買ったばかりのポカリスエットを「お接待です」と言って私の手に渡されました。
一瞬の出来事でなんの事やら理解出来ないまま、渡されたポカリスエットを握っていました。
若者は何も無かったように引き返し車に乗り去っていきました。

やっと理解出来、不思議と涙が出てきて止まらなかったと言う。

「お四国」で「お四国さん」の始まりです。
進めるにしたがって違いがもっともっと分かてきます。
四国88カ所を開いた弘法大師とは(空海)
平安時代(774〜835)の僧。真言宗の開祖。讃岐国多度郡広田郷屏風浦に生れ、俗姓は佐伯氏。
15歳のとき、外舅の阿刀大足に経史文章などを習い、18歳のとき大学に入り詩書、「春秋左氏伝」などを学んだ。また、都を離れ阿波国の大滝獄や土佐国の室戸岬などの大自然の中で苦練修念の行を励んだ。
24歳作の「三教指帰」3巻にみられる巧妙な構想や文章は青年時代の才能を示している。
当時空海は、広く儒仏道の3教に通じ、すでに仏教の中でも法華・梵網・四分・三論・唯識の諸学および密教的知識をも会得とくしていた。
31歳のとき(804年ー延歴23年)入唐留学の僧に選ばれて長安に行き、翌年6月に青竜寺の恵果に師事して半年の間に金胎両部の密教をさずかり、師入滅のさいの遺言によって留学を2年で切り上げ、33歳のとき帰国したが、留学成果の具体的内容は「御請来目録1巻に見られる。
43歳のとき(816年ー弘仁7年)修禅の道場として高野山を賜わる。
50歳では国家鎮護の真言道場として東寺を賜わり、翌年、高雄山寺を定額寺として神護国訴真言寺と改称する。
61歳(834年ー承和1年)の暮れには如来の説法に顕密二趣のあることをのべて毎年正月宮中の金光明会に別に真言による修法を行われるようになりる。
翌年の正月からは宮中に真言院を設け、御修法の恒例を開き、また諸宗なみに真言宗にも両部経業と声明業との年分度者3人を賜わるよう勅許された。
この年62歳で高野山金剛峰寺に入寂したが、遺教によって東の峰におさめられた。
また彼は日本の書道会の祖としても重視され、その筆は嵯峨天皇とともに二聖ともいわれ、橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれている。
巡礼の日数
お寺での参拝の仕方によっても違ってきます。
納経帳への朱印・墨書を貰う事を目的とする人。
般若心経を唱え熱心にお参りをし、その寺の縁起、話題、風景などを楽しみながら参拝するのとでは大分時間が違ってきます。
歩いて45日前後、乗り物を(JR・バス)を利用して20日前後、観光バスで12・3日、自家用車・タクシーで8・9日くらいが普通でしょう。
自家用車・タクシーなどは本堂近くまで(無理矢理?)というような事も出来ますが、参拝の趣が無いように思います。
納経帳への朱印・墨書を貰う時間が午前8時から午後5時となっている為に、混雑しているお寺は近くに有る次のお寺を先に済ませると良い時も有る。

一度に全部を巡礼することもいいです。
今回は少し廻って、また次の日を選んで少し廻って、と何回かに分けて巡拝しても構わない。
また、巡拝順序などにはとらわれず何処から初めても、気分の赴くままに廻られてもいい。

下記は8泊9日の日程を記しています。参考までに。
88ヶ所を8泊9日で巡礼。
回数 行く先
第1日目 1番霊山寺
6番安楽寺
11番藤井寺
2番極楽寺
7番十楽寺
12番焼山寺
3番金泉寺
8番熊谷寺
13番大日寺
4番大日寺
9番法輪寺
14番常楽寺
5番地蔵寺
10番切幡寺
15番国分寺
宿泊
第2日目 16番観音寺
21番大龍寺
17番井戸寺
22番平等寺
18番恩山寺
23番薬王寺
19番立江寺
20番鶴林寺

宿泊
第3日目 24番最御崎寺
29番国分寺
25番津照寺
30番安楽寺
26番金剛頂寺
31番竹林寺
27番神峰寺 28番大日寺

宿泊
第4日目 32番禅薬師寺
37番岩本寺
33番雪渓寺
38番金剛福寺
34番種間寺
35番清滝寺 36番青龍寺

宿泊
第5日目 39番延光寺 40番観自在寺 41番龍光寺
42番仏木寺 43番明石寺
宿泊
第6日目 44番大宝寺
49番浄土寺
45番岩屋寺
50番繁多寺
46番浄瑠璃寺
51番石手寺
47番八坂寺
52番大山寺
48番西林寺
53番園明寺
宿泊
第7日目 54番延命寺
59番国分寺
64番前神寺
55番南光坊
60番横峰寺
65番三角寺
56番泰山寺
61番香園寺
66番雲辺寺
57番栄福寺
62番宝寿寺
67番大興寺
58番仙遊寺
63番吉祥寺

宿泊
第8日目 68番神恵院
73番出釈迦寺
78番郷照寺
69番観音寺
74番甲山寺
79番天皇寺
70番本山寺
75番善通寺
80番国分寺
71番弥谷寺
76番金倉寺
81番白峰寺
72番曼陀羅寺
77番道隆寺

宿泊
第9日目 82番根香寺
87番長尾寺
83番一宮寺
88番大窪寺
84番屋島寺 85番八栗寺
86番志度寺
結願
その他 高野山参拝
今治=オレンジフェリー=紀三井寺=和歌山城=かしかドライブイン高野山参拝=高野山(泊り)(金剛三味院)*参拝=明石海峡大橋=川之江=今治
南無大師遍照金剛とは
「遍照金剛」とは、弘法大師が唐の国へ留学した時、その師、恵果和尚からいただいた称号。お坊さんとしての名前である。
「南無」とは、「あぁ」と感嘆する言葉であり、「あぁ、ありがたや弘法大師さま」とう意味である。
これを唱えることは、大師様におすがりすることになり、遍路は大師様と二人で巡るのです。


なぜ八十八か寺になっているのか
<三十五仏名札懺文>などの35仏と<観薬王薬上二菩薩>などの53仏とを合わせたものといわれ、
また、88の煩悩を表したものともいう。
それに、大師が唐から持ち帰った釈迦の八大霊塔の土で、その11倍の寺を建てたとか、色々な諸説があるが、定説はない。


お寺の開基について
全てのお寺が弘法大師につながってはいるが、開基については色々である。
行基が27寺、大師が39寺、その他が22寺になっている。いずれもはっきりとはしていない。
弘法大師の開基は、阿波23寺のうち15寺、土佐16寺のうち8寺、伊予26寺のうち5寺、讃岐23寺のうち11寺となっている。


行基菩薩について
奈良時代の僧。(668〜749)
15歳で出家、法相の教義を学び、道昭、義淵、智鳳らに教えを受けた。
早くから諸所を歴遊して自行化他つくし、彼の徳を慕って集まった道俗の人たちをひきいて、池を築き、溝を掘り、橋を渡し、樋を通し、堂を建造した。
717年勅をもって大宝の僧尼令に違反するものとしてその行動は禁止されるに至った。
しかし彼の行動はやむことなく続けられ、725年山崎橋を架したことによって聖武天皇の尊信を得る。
聖武天皇の勅願による東大寺毘虜遮那仏造立のため、朝廷より請われて歓進の行に出ている。
745年大増正、749年大菩薩の号を賜った。
聖武天皇のとき行基が日本全図を作成したと伝えられる。


長宗我部元親とお寺
阿波や讃岐のお寺はほとんど、長宗我部元親の四国統一時の戦火に焼かれている。
その悪名高い元親も、土佐では国分寺を再建している。柿葺きの金堂は悪名とは似ても似つかぬ優雅さを持っている。
この長宗我部元親もその後、豊臣秀吉の四国征伐をうけて阿波、讃岐、伊予の3ヶ国を削られた。
元親の封を継いだ盛親は関ヶ原の役で西軍に参加し、敗戦後は所領を没収されて、京都に住み、大阪夏の陣には城に篭もった。
落城のさいのがれたが、八幡山麓で捕らえられ京都六条河原で切られた。
22代続いた長宗我部氏の正統は断絶した。


四国札所には五重塔は4ヶ所
現在は70番札所・本山寺、75番札所・善通寺、86番札所・志度寺であり、讃岐に3ヶ所あり、それと土佐の31番札所・竹林寺にあります。
過去にはもっとあったが、兵火、火災などで焼失している。
やはり五重塔の再建は大変で2層ないし3層の塔になっている。

31番竹林寺 70番本山寺 75番善通寺 86番志度寺
札所間の距離
道路事情により多少は異なるが、総工程は約1,400km。車での時間は高速道路などの使用により以前と比べて相当短縮されるようになりました。
最長距離は土佐路の窪川町37番札所・岩本寺から土佐清水市38番・金剛福寺間の103.8kmである。車で2時間、歩きで27時間。
歩き遍路では、1日8時間歩くとして、4日目にやっとお寺の姿に会えるということです。
なお、最短距離としては、讃岐路の観音寺市にある68番・神恵院と69番・観音寺が同じ境内にあり距離は0m。
全体を平均すると、約16kmになる。


金剛杖
金剛杖は大師様の身代わりとして捧持して、宿に着くとまずその先を洗い床の間などに立てる。
金剛杖は橋の上では突かない、それは大師様が巡錫にとき、宿が取れず橋の下で一夜を過ごされたことがあるので、大きな音を出して起こさないようにということです。
また、その昔は遍路の途中で亡くなった人の墓標に使ったといわれています。


四国病院に入院
四国遍路は今では観光を兼ねた人が圧倒的に多いが、昔の人の考え方は全く違っていた。
難病をわずらい医者にも見離され、真剣な思いで大師に縋り、奇跡を信じて巡拝する人もいた。奉納箱車
阿波路22番札所・平等寺には「木製箱車」(今でいう車椅子)が奉納されている。
足の悪い人が巡礼するうちに良くなったということである。
伊予路57番札所・栄福寺には本堂脇に置かれた木製箱車と松葉杖。
これは昭和8年に足の不自由な少年が訪れた際、境内でうっかりころんだ拍子に歩けるようになったという不思議な実話の奉納品です。


遍路笠
遍路笠には、迷いのある身は魔の城のようなもの、(迷故三界城)しか悟りを開けば仏の国に入れる(悟故十方空)という意味の四行句を、また大師と共に行くという意味で同行二人と書く。
歩きお遍路さんについて
歩きお遍路さんをよく見掛ける。(自分がタクシーの職業に就いたことでもあるが)
1年間に4000人とも5000人ともいわれている。
巡礼にも人それぞれに方法がある、電車バスの利用、自家用車、観光バスと色々。

自分は歩き遍路に憧れている、一度してみたいと思う。
でも、出来ないだろう。自分なりに考えると相当なる勇気がいる。
まず、それに必要なものは
「健康な体力」これは今はなんとか有ると思う。
「45日間一人での自由な期間」これは無い。
「50万円から60万円の費用」これも当然無い。
「今お遍路に行かなければという理由」これも無い。
今有るのは体力のみ、これも信用ならないだろう。
もっと信用の無いのは最後まで結願する自信があるかと言う事であろう。

これらの事をすべて持って出発出来る人は最高に幸せだと思う、最高なる贅沢だと思う。
一般的に見ると、海外旅行などは派手で目に付きやすく贅沢をしていると見らている。
でも、もっともっと贅沢旅行は歩きお遍路さんだと思う。

歩きお遍路さんごめんなさい。


職業お遍路さんてなに?
今はあまり見かけなくなったが昔はよく見かけたと言われます。
職業として歩き遍路をしているのです。
生活の為の収入をお接待から得ているのです。


今現在15人くらい居るといわれます。
家内が気が付き写しました。

身動きもせずじっとしています。
長時間大変だと思いますが、これも一つの職業。


その2時間後松山市内で買い物の帰り、このお寺の近くを通ると、この人がスーパーから買い物袋を持って出てくる所を目撃しました。


バスで来た巡礼の人がお接待しているのが写っていました。

仁王門を撮った時偶然写っていたものです。


写真を整理している時気が付きました。
(ほんとです、ヤラセではありません。)
昔のお遍路事情
昔と言ってもそれほどの昔ではありません。
自分が体験したこと、聞いたことなどですが。

このページの最初に書いている事は少し違った感じで書いています。
それを少し訂正します。

「かあさぁ〜ん・・お遍路さんがきてるよ〜〜」
と言うと、母が感じよくお接待しているように感じますが、本当は違うのです。
お遍路さんが来てもそんなこと言いません。

今までこれからの事を書けないと思っていたのですが、書きます。
それは瀬戸内寂聴さんの本を読んだからです。

以前は歩き遍路さんは多かった、そのほとんどの人たちは托鉢をしていた。
その中には、宿泊を要求するお遍路さんも多く居た。「家の中とは言いませんが、納屋の中にでもお願いします」と言うぐあいで、泊まるのです。断っても勝手に泊まっています。
それだけならいいのですが、たき火をして炊飯するのです。そのために、火事になりかけたことも有るそうです。(お寺でたき火をしていて五重塔を全焼したところも有ります)
職業お遍路さんも非常に多かったと言っていました。

特にお遍路さんに気になるのが、癩病の人たちが多くいたそうです。
今では治療法が確定していますが、以前は違っていました。
遺伝病と思われていて、家族の中から出るともう大変だと言う事で、弘法大師にすがり四国遍路に出されたそうです。白装束は死衣装で金剛杖は墓標代わりとしていたそうです。

そのような事で、私たちの小さい頃はお遍路さんの事を「へんど」と言っていました。
「お」も「さん」も付けません。軽蔑と嫌悪の感じでそう言っていたそうです。
徳島出身の瀬戸内寂聴さんも小さい頃言われたのでしょうか、私はよく言われました。
「いうことをきかんと、へんどにつれて行ってもらうど」。怖かったものでした。

それと、こんなお遍路さんもいたのかと感心します。
女性が18歳(お嫁入り前)頃になるとお嫁入り道具の一つということで、お遍路を体験するそうです。
今84歳の私の近所に住んでいるお年寄りは、20歳の時に体験したと言っていました。
父、兄、自分の3人で行ったそうです。
その当時、これの出来る家は大変裕福な家でなければいけない。
その時も50日くらい掛ったと言っていました。
3人分の旅費など大変な金額になったでしょうね、托鉢などは一切しなかったそうです。


四国病!!何の病気?

四国には病気があります。

ウイルス性感染症です。一般的な病名は「お四国病」と言われています。

四国に足を踏み入れるとこのウイルスに感染する恐れがあります。
最近はインターネットを介してこのウイルスがまん延し始めたとも言われています。

この病気に感染しますと症状として困ることは、春温かくなってくると四国八十八ヶ所のお寺が目の前にちらつくようになる事です。

治療方法としては、四国に向かう事が最高の薬だといわれています。

この病気にかかると治療方法が有りません、今四国に向かい治癒したように思われますが又年が明けると症状がぶり返します。

もう、何年も前からこの病気にかかり「今度で5回目ですよ」・・・・「私は15回目です」
「自分はまだまだこれからですよ」など言いながら銀の納め札をもっている。
このように「お四国病」にかかってしまっている方がおおぜいいます。

この数年前よりNHKで度々四国八十八ヶ所を放送したので感染者が増えたようです。

このページを見ているあなた、もう感染しているかも知れませんよ。

気をつけなければ。あぶない!!あぶない!!!


遍路の道しるべを建てた人たち
僧真念
真言宗の僧で大阪西浜町寺島の生まれ、宥井とも言い、高野山光院寂本の指導を受け貞亭(1684〜1687)から没年の元禄4年(1691)頃までの活躍がめざましい。
四国霊場の巡礼は、二十数回に及ぶ、その間に「四国中まぎれ道が多く遍路が道で難儀しているのを見て、十万の喜捨を集め200余基の道しるべを立てた」という記録がある。
真念の道しるべの特徴は、梵字、南無大師遍照金剛、左右の方位をしめして遍路道を刻んでいること、また彼の悲願であったのだろう「偽父母六親供養」の文字を入れたものもある。
四国遍路のガイドブック「四国遍路道指南」を刊行している。
更に「四国遍路功徳記」を著し、寂本の著書「四国巡礼霊場記」の資料を提供している。
さらに、泊まる宿が無く難儀しているところに遍路宿を建てるなどの慈善事業をした。
武田徳右衛門
越智郡朝倉村上乃村の生まれ。先祖は地元の龍門城の城主武田勝公とか。
当時は天領の大庄屋につかえて平穏な生活を送っていた。ところが、天明元年(1781)から寛政にかけての11年間に6人の子供が次々に死に、最後に長女一人残るだけの境遇となった。
徳右衛門は、住職の勧めもあって以後仏門に帰依して毎年三回をめどに四国巡礼の旅をした。
巡礼途中何度か道に迷ったであろう。その頃、道しるべも所々に有ったが、里程が書いていないことへの不便さを感じたのである。
寛政6年(1794)に道標建立を初願し一国に3年づつかけて12年間で大願成就されたようである。
こうした子供を愛する強い心と信仰心のおかげがあったのだろう、長女おらくは養子を迎え、今もその子孫は健在であるという。
彼の道しるべの特徴は梵字の下に大師像を刻み「是より横峰まで六里」と里程を示していることである。
中務茂兵衛
茂兵衛は山口県周防郡大三島椋野村の生まれで、慶応2年(1866)22歳の時、家を出て遍路をし、死ぬまで故郷に帰らなかった。
約60年間も歩いて遍路の旅を続け、280回も巡礼をした空前絶後の記録を持っている。
その間に、彼の立てた道しるべは220基ともいわれ、まさに生涯を遍路に捧げた人と言える。
茂兵衛の道しるべの特徴は巡拝数を記した巡拝塔と供養塔を兼ねていること。
また、和歌や俳句を添えたものが35基残っている。
「迷う身を教えて通す法の道」の添句が何基かあるが、手印をつけて「あなたの行く道はあちらですよ」と道案内をしている茂兵衛の心情が伺える。
静道尚信
静道は、今治市城下の鍛冶屋町の生まれで幼名は良之助、成人して静道と名乗った。
31歳から58歳で没するまでの27年間に35個、12種類の石造物を建立している。
但し、色々な名前を使っているため異人と間違えられ易い。
三好保治氏の発表によれば、寛誉静道も雪露庵静道も金吉屋静道も同一人物あるとのことである。
静道の墓石は南光坊と幡勝寺にあり、いずれも添句している。
なお、金吉屋というのは静道の本家筋にあたるそうだ。
豊かな心を持った里人たち(今治市近辺)
小泉にある道しるべは今治で五本の指に入る立派なものである。
天保15年に小泉村上所の人たちが建立した。
作礼山道の道しるべの中にも、大野中、新田中などの刻印が見える。
舟形地蔵石の八町と刻んでいる道しるべには「八町村中」と刻んでいる。
江戸時代の後半、心豊かな里人たちが、訪れる巡礼者への暖かい思いやりから建てたものであろう。
お寺について
四国八十八ヶ所巡礼、その文字の示す様に88のお寺が有ります。
全て同じような形態のお寺ではありません。

非常に広い境内(75番善通寺)、ここが!?と驚きの狭い境内(16番観音寺)、山の頂上のお寺(66番雲辺寺)など変化に富んだ形態をしています。

その全てに趣きが違っています、季節により違うお寺では??っと感じる所、何時もと同じお寺など、何回巡礼しても飽きない風景をかもし出してくれます。

花の季節はお寺にお似合い。
桜のお寺・・・・・・・・・・みんなお似合い
山桜のお寺・・・・・・・・65番三角寺
枝垂れ桜のお寺・・・・19番立江寺、29番国分寺、49番浄土寺
ツツジのお寺・・・・・・・27番神峯寺、54番延命寺
石楠花のお寺・・・・・・21番大龍寺、60番横峰寺
紫陽花のお寺・・・・・・34番種間寺までの遍路道、36番青龍寺前、81番白峰寺周辺
紅葉のお寺・・・・・・・・20番鶴林寺、82番根香寺
お寺の駐車場は??
車巡礼に付き物の駐車場の心配。余り心配無用、お寺には完備しています。
でもね、巡礼が始まって1200年、以前は全て歩き遍路、ここ35年ほど前から車巡礼が始まりました。
車巡礼はまだまだ歴史が浅い。完備されていない所も数箇所。

基本的には全てのお寺の駐車場は有料と思っていたほうがいいかも??
でも有料看板の出ていないところは「ありがとうございます」ってお辞儀をして境内へ。
料金は普通車で200円、納経所で納経費用と一緒に払う所が多いようです。

75番善通寺では係員が料金徴収と整理をしている所も有ります。
又、お寺への道路がお寺の私有地となっていて道路の整備費用も一緒にってお寺も有ります。
12番焼山寺400円、21番大龍寺(車でお寺まで)500円、27番神峯寺400円、58番仙遊寺400円など。
一番金額の多いのは、60番横峰寺、道路は営林署管轄で駐車場も合わせて1800円、びっくり!!。

お寺に駐車場が無く、近所の方がちゃっかり有料駐車場を作っている所が多く有ります。
管理者の常駐している所、箱を置いていて「ここに200円お願いします」ってのもの。
松山51番石手寺の門前駐車場は民間の有料駐車場で300円です(最近値上げ)

この費用200円くらいと思っていても件数が多い為結構金額がはっている。
この費用とロープウェイ2ヶ所、ケーブルカー2ヶ所(屋島ドライブウエイ)普通2人(奥さんと一緒)だと2万円オーバー。
お寺への巡礼者たち
季節により大きく違います。
春、秋の日曜日、巡礼者が殺到します、観光バスが連ねて来ます。

広い境内だと目立たないのですが、狭いお寺ではもう大変。
まず、トイレの確保に大忙し、バスの添乗員の方の大声、早く歩く方、お年寄りで足の遅い方、もう目が回るーー。
先達さんは大きな声で般若心経の読経、大きな太鼓の音。

入ってくる方、出て行く方、入り乱れて自分のバスがどれだか分からない!!!。
ガイドさんが「一人帰って居ないのですが誰か知りませんか〜〜〜〜〜」大汗で駆けている。

「四国遍路お寺でのんびり心を洗って〜〜」って何処の国のお寺の事なの??。

特にひどいのが松山51番石手寺、近くに道後温泉を控えて居る為に巡礼以外に一般観光客非常にが多い。
ハンドマイクを持ったバスガイドさんの案内説明、それも次から次へと切れ目無く。

自分は此処に何をする為に来ているのかが分からなくなる。

弘法大師さまをしたって巡礼?お遍路?。???マークが沢山。
真言宗の方?、いえキリスト教です。

ほとんどの方は信心とは関係ない、観光なんです。
納経帳について
納経帳、此れが一番大事なもの、掛け軸も一緒に作るけども。
そのお寺に来た証に朱印墨書きをしてもらう帳面です。

この帳面を買う所が果たして、何処で購入するか??
一番先に思うのが一番札所霊山寺。
普通は最初に訪れるお寺なので、巡礼用品を一式購入するでしょうね。

でも、納経帳は要注意。
私は経験していないのですが、こんな話を聞きました。

買った時には気づかなかったのですが、何日も掛って(その方は約1年)やっとの思いで88番大窪寺。
此れで終わったと思って、感慨にふけり感動して良く見ると、もう1ページ有る。
最後の高野山ではなく、1番霊山寺。
「「「なっなんだ、これは!!!」」」

そうなんですよ、お礼参りにもう一度1番霊山寺へ行き、300円払って朱印墨書きしなくては完成しません。

納経帳は何処でも、お寺以外でも購入する事が出来ます。
でも1番霊山寺へのお礼参りの為に余分に1ページ作っているのは1番霊山寺で購入した納経帳のみです。
此れが必要な方、1番霊山寺での購入をお勧めします。

特に要注意なのが、朱印墨書き忘れない事。
私にも有りました。
家に帰って家内が「お父さぁ〜ん00番のお寺の札知らない〜〜」
「知らないよ、どこかに紛れ込んでいるの〜〜」
「あぁ〜〜〜00番納経していない〜〜〜〜〜」
後日そのお寺のみに納経して貰いに行く。もう大変。

それともう一つ。
納経をお願いする時に開けて出すか、閉じたまま出すか、何れにしろ開けて書く事は何処でも同じ。

次のお寺で納経しょうと思ったページがもう終わっている。
「あぁ〜間違えた〜〜〜」後悔先に立たず、諦めが肝心。
納経所について
納経所って??。
四国巡礼スタンプラリーのスタンプを押して貰うところです。

お寺へお参りを済ませると必ずここに来ます。

大きな立派なお寺、狭い敷地で少ない建物のお寺と、さまざまなのですが四国八十八ヶ所のお寺であれば同じ人数の巡礼者の訪れる場所です。
専用の部屋を作っているお寺、本堂の片隅を利用しているお寺など様々です。
朱印、墨書きする人も1人から3人とさまざまです。

観光バスが2台、狭い境内には大勢の巡礼者、あれ??納経所に人が居ない。
お寺はがらがら、納経所に2.3人、でも何だか様子が変。

お寺の境内と納経所は全く別な所です、境内の様子など関係有りません。
観光バスの巡礼者は納経所には入りません
観光バスの先行き添乗員、その方達の行方で決まるのです。

観光バスの後先になり、別な乗用車で納経帳、掛け軸をまとめて持って行くのです、30人分から60人分。
この人が来ると納経所は一変。
納経所に2.3人の人でも納経帳、掛け軸が60〜70有るのです(納経帳と掛け軸を同時に作成の人も)巡礼者が70人居るのと同じ。

そこに出会うともう待つのみ。「割り込みはどうでしょうか・・・・・」小声でそっと言ってみれば〜

納経所は朝7時より午後5時となっていますが、そこは家族運営のお寺時間。
7時ぴったりに納経をしてもうなんて予定を組まない事。
5時ぴったりに納経をしてもうなんて予定を組まない事。
5時00分00秒で小窓を閉められたって驚かない事。
ここは唯一の00番札所ですよ、他のお寺で代りは出来ません。
接待宿利用のマナー
少し前の事です。
59番国分寺の駐車場に有った通夜堂と言うか無料の宿泊施設が撤去されていました。
炊事流し、コンロ、洗濯機、休憩所、寝室、それに布団と便利なものが備えられていたのに。
どうして??しばらくの間疑問の思っていました。
その理由をお寺の納経所の方に聞く機会が有りました。

そこには耳を疑いたくなる様な事が聞こえてきました、信じられない。
*永住者が居る。巡礼者の服装をしているのだがはたして??1人が去ると直ぐに次ぎの人。
*人数が多く集まる。
*夜遅くまで酒盛りで賑わっている。
など近所からの苦情が絶えなかったと言っていました。

その後下記の様な記事が出たので驚き。(メールマガジン週間へんろ)
無断掲載ですが読んで下さい。
最後に購読のお申込が有ります。

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週刊へんろ  第190号 (毎週水曜日発行)

[  みちしるべ  ] 接待宿利用のマナーが悪くなっています
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 お四国には、昔からお遍路さんに一宿一飯(いっしゅくいっぱん)を施す接待宿、
善根宿の風習があります。お四国の人々のこうした善意は、歩いて八十八ヶ所を巡る
お遍路さんにとって、大変ありがたいものですが、昨今、この善意を踏みにじる行為
が目立って発生しています。

 先日も徳島のある善根宿のご主人に話を伺う機会がありました。せっかく接待宿を
提供しても、売上金が盗まれたり、宿の悪口を流されたり、また携帯電話で仲間同士
で連絡を取り合って、大勢で押しかけるなど、状況はますますひどくなるばかり。も
ともと善意でやっているものだから、それなりの覚悟はあっても、度を過ぎたお遍路
さんの態度に、大変困っているとの事でした。

 寺院では、金銭的に余裕のないお遍路さんに対して、通夜堂を提供しているところ
も多くありますが、携帯電話でお接待宿を「予約」してくる者、通夜堂を貸してもらっ
ても、お礼の一言も言えないような遍路が増え、通夜堂の使用禁止、撤去なども相次
いでいるようです。

 また、接待宿のリストを宿を提供してくれる人に無断で作成し、歩いている人に公
然と配布している人が増えています。(編集部では、既に数種類のこうしたリストを
把握しています)。接待宿をやっている人の気持ちが分かってのことでしょうか? 
通常、接待宿を施してくれる人は何らかの他の仕事を持っていて、自宅の一部や、会
社の一部を宿として提供してくれています。ですから、たいていは泊まれる人数はそ
れほど多くはありません。そこへ、大勢のお遍路さんが、「宿」に泊まる気分で押し
かけたらどういうことになるか。またそうしたリストを手にすることによって、「お
接待」を目当てに歩く遍路が増えていく原因にもなっています。

 そもそも、善根宿とは、そこを目指して歩いていくものなのでしょうか。そういう
疑問が湧いてきます。

 歩き遍路のマナーを守って・・という投稿は、週刊へんろや雑誌「四国へんろ」に
も再三寄せられていました。そういう声があるにもかかわらず、依然マナーの向上が
見られないのはどうしたものでしょうか。今一度、お接待をしてくださる方々の立場
に立って、考え直してみたいものです。

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