| 四国霊場八十八ヶ所お遍路弘法大師の御心をたずねて 四国八十八ヶ所遍路文化のあゆみ |
| これは愛媛県発行の遍路文化の学術整理報告書からの抜粋です。 |
| 四国遍路の起源 | |
| 霊場八十八ヶ所の形成 | |
| 修行遍路から庶民遍路へのみち(遍路の庶民化) | |
| 八十八ヶ所の霊場番号と御詠歌 | |
| 遍路の多様化と接待 | |
| 明治前期における遍路の衰退(神仏分離令と廃仏涅毀釈) | |
| 多数度巡礼者(裸足遍路12度) | |
| 様々な遍路たち | |
| 遍路の接待 | |
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| 様々な遍路たち |
| 農閑期の気候のよい時を選んで行う春季、秋季の季節遍路が圧倒的に多かった。 こういった季節遍路の目的はおおむね、家内安全、先祖の菩提を弔うこと、心身の鍛練などであり、そのほかには社会見学の意味合いもあったろう。 特に春季には、地域によっては成人の通過儀礼としての意味合いを持つ若者遍路、娘遍路が盛んに行われ、ごく少数の例ながら、溝組織による団体遍路の姿もあった。 それに対し、季節にかかわりなしに遍路を巡った「時なし遍路」には特別な心願をこめた遍路が多かった。求道求法の目的を持って遍路を続けた行者である中務茂兵衛、人間関係の苦悩からの解放を願って遍路を行った高群逸枝、四国遍路一万人接待の大願を五十番繁多寺において成就した安田寛明などは比較的著名であろう。 しかし「時なし遍路」の中には、物乞いの遍路や詐欺・泥棒の遍路(実質的にはニセの遍路である)といった、遍路を生活の手段とする職業遍路も存在していた。 また、夏期、冬期に目立ったのは、医者から見離されたような重い病気の平癒を願った遍路であり、足腰の立たない者、眼の見えない者やハンセン病患者などの病人の遍路が、どの札所においても1日数名は必ず来たと言う事である。 これらの人々の中には何度も四国を巡るうちに所持金も尽き果てて物乞い遍路になった者も多かった。 物乞い遍路 冬になると沿道の接待がなくなり、寒さをしのぐ宿もなかったので、11月末ごろから2月までは温暖な高知県の海岸で生活するものが多かった。 中でも米を炊く釜さえ持たない人々は、米を袋に入れ海岸で砂を掘り、その穴に袋を入れてその上に砂を薄くかぶせる。さらにその上で焚き火をして野菜を煮る。その内に袋の中の米が適当な水分を吸収して、塩気のある飯となるのである。 このほか飯の采は漁民から魚を貰ったりしたものをあてるといったぐあいである。 やがて春ともなると北四国へ向かって移動して行くのだが、このような遍路は大正時代にいたっては高知県の海岸には1.000名近くいたといわれている。 病気の遍路たち 盲目の遍路、自分は結核だと言う遍路、よく見かけたのが足腰の立たない遍路。 足腰の立たない遍路にとって、ギブスを身につけ箱車に乗って、家族や縁者、あるいは道筋の村々の人に引かれ、また独力で箱車を引きながら八十八ヶ所もの札所を巡ることは、精神的ににも大きな苦痛をともなうものであっただろう。 苦痛自体が遍路としての行なのであり、苦痛を自ら選ぶことで、その中に報いを求めたのである。 しかしこうした遍路たちの中には、病気治癒の望みがかなわなければ、結局四国の地で行き倒れるしかない者も多かった。 果てしの無い遍路行を続けたあげく亡くなった遍路の例は、近代になっても少なからず見出される。 ハンセン病の遍路 特に四国遍路とかかわりの深い病気は、ハンセン病である。 ハンセン病はらい病とも呼ばれ、神経障害によって顔や手足が変形することから、患者は常に迫害を受けてきた。 かっては先祖からの遺伝病とされていたが、除々に伝染病であることがわかってくると、今度は肌の暖かみが移ると感染するなどどいわれのない偏見の眼で見られ、差別された。 医療技術の進んだ今日では治癒する病気となったが、かっては不治の病とされ、患者たちは弘法大師に救いを求め、最後の望みをかけて四国に渡ったのである。 |
| 遍路の接待 | ||
| 1・接待という語 | ||
| 現在、一般的に使われている「接待」という言葉は、人をもてなすという意味である。 日本でこの語の初出例は、鎌倉時代の道元の「正法眼蔵・安居」(寛元3年(1245)に「諸方の接待及び諸寺の旦過みな門を鎖せり」とあるのがそれだとされ、旅人に茶を施すという意味合いで用いられたという。 その後の用例もおおむね同様で、近世に発達した俳諧の世界においても、茶を振る舞うという意味の秋の季語として使えわれたようである。 四国遍路の世界では茶のみにとどまらず、それ以上の広い意味合いを持って発展するころになる。 この接待が四国では「お」をつけて「お接待」と呼ばれている。 お接待は、お四国・お遍路さんなどの呼ばれ方と同じ流れの中で理解され、昔から接待を行う人々は「四国を霊場を尊び、そこを苦行しながら廻る巡礼を、とくにお遍路さんと呼んで大切にもてなす」ために「お接待」習俗として、時代による変換をしながら、根本的な心は継承し、実践してきた。 「お接待」という言葉の中に、接待を行う人々の特別な思い入れを感じとっている。 |
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| 2・接待の内容 | ||
| 品物を提供する接待 江戸時代からの接待で出された食べ物としては、その場で食するご飯・湯茶・甘酒を始めとして、携行も可能な餅類・漬物・梅干・味噌・入り豆・ふかし芋・ミカン・梨など多種多様なものがあげられる。 また、持ち運ぶのにはやや重いものの、白米の接待も一般的であった。 食べ物以外の物品では、道中でどうしても履き替えが必要な草鞋やチリ紙などの紙類が主で、変わったものとしては弘法大師や四国霊場について記した本の接待(施本)などがあげられる。 さしあたって必要の無い物品を貰った遍路は、遍路道沿いの町で売ったり他の物と交換したりして、遍路行を続けるために役立てた。 平成の現在においての物品を見ると、餅類・ミカン・お茶・ご飯・ふかし芋など昔と同様の接待品に加えて、食べ物ではお菓子や菓子パン、ジュース・などの飲料水が登場しており、食べ物以外ではティッシュペーパー・タオル・巾着袋など、すぐに役立つ旅の実用品が接待されているのが分かる。 また、うどんの接待が多いのは香川県さということであり、そういった意味で接待に地域の特色も出ている。 金銭を提供する接待 これも江戸時代から現代に至る接待である。 今は主として歩き遍路に対し、飲料水代程度、あるいは500円・1.000円を接待する場合が多いようだ。 また、接待品にさい銭として5円玉、10円玉を添えて渡す場合もある。 もっとも、いくら接待だからといって金銭をもらうことに抵抗感を感じる遍路もなかにはいるようでである。 行為を提供する接待 江戸時代によく見られたのが、髪結い(床屋)が札所境内などで遍路の頭髪を整える接待で、こういった整髪の接待は銘じ40年ころまであったという。 同じく、按摩やお灸の接待については、現在もおこなわれている例がある。 交通関係では、江戸時代、川など橋のない大河を無料で渡すいわゆる「善渡し」が知られている。 また、遍路のために遍路道を整備するも、行為による接待といえよう。 遍路道沿いの村々では、病気で行き倒れた遍路に対する接待にも篤いものがあった。 そして、もし病気の遍路が村内で死亡すると、所持する納札などによって住所が判明すれば遍路の故郷へ便りを出したり、遍路の遺体を埋葬して墓を立てたりすることも行われた。 |
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| 3・接待の人達 | ||
| 個人が銘々に行う個人接待 自宅が遍路道沿いにあって家の前を通る遍路に接待する場合と霊場の境内はどで接待する場合に分けられる。 遍路道沿いの人が沿道に出て通行する遍路に声をかけて接待品を渡したり、あるいは家の戸口に米や麦・大豆などを入れた「勧進箱」あお置き、遍路が来れば一握りずつ取らせるようにしたものである。 日を決めて霊場に出向いて遍路に接待品を手渡す接待もあった。 霊場近くに住む村人たちが集団で行う接待。 日取りや時間、場所などを決めて出向いて行う接待だが、こういう形態の接待について最も古い例は享保年間(1716〜1736)であり、さらに四国全体で広く行われるようになるのは宝暦(1751〜1764)・明和(1764〜1772)の時代ではないかと推測される。 四国以外の人々が団体で接待する「接待講」 四国遍路への接待を行うことを主な目的として結成された集団でsる。 江戸時代から始まるこれらの接待講の活動は現在も脈々と受け継がれている。 |
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| 4・接待講の活動 | ||
| 有田接待講 和歌山県の有田市・有田郡全域と海草郡下津町小原地区の人々によって構成され、毎年春に紀伊水道を渡って徳島県鳴門市の一番霊山寺で接待を行っている。 接待講の活動が開始されたのは文政元年(1818)といわれている。 有田市を流れる有田川の源流は高野山へと通じており、四国遍路を終えて高野山へ向かう大勢の参拝者が有田の地域を通っていました。この地域の人々は、古くからそういうお遍路さんに食事を与えたり宿泊させたりしていたのです。 このようにこの地方にはもともと接待の土壌があり、その中から有田接待講の組織的活動が始まったといわれています。 野上接待講 一番霊山寺境内で接待を行う講として、有田接待講とともに野上接待講が知られている。 和歌山県の野上町・美里町・海南市の人々が中心で、その始まりは寛政元年(1789)といわれている。 霊山寺境内の接待所は、最初は天保13年(1842)に建てられたとされ、その後の建て替えは両接待講が資金を出し合って行われた。 まず、野上接待講が3月の彼岸残後に接待を行い、続いて有田接待講が4月に接待を行うをいうように、順番に使い分けがなされている。 紀州接待講 この接待講は徳島県日和佐町にある二十三番札所薬王寺で接待を行う。 この接待講は高野山に近い和歌山県かつらぎ町や橋本市など紀ノ川上流の人々が中心であるが、それにとどまらず紀ノ川筋のほぼ全域を含み、最上流の奈良県五條市辺りから最下流の和歌山市まで広範囲におよんでいる。 紀州接待講の始まりは、江戸時代後期の18世紀後半から19世紀前半と考えられる。 紀州藩主徳川家の許可を得て始まり、さらに薬王寺の門前の土地を借り受けて、藩主の命令で木材を紀州から運搬して接待所を建設したということである。 現在は、3月27日から4月5日まで10日間の接待を行っています。 その他の接待講 香川県善通寺には仲南町からやってくる接待講 甲山寺には岡山県倉敷市から道越講・道口講という二つの接待講がやってくる。 道隆寺には岡山県の数ヶ所や広島県尾道市から団体で来る。 |
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| 5・地域の人々による接待 | ||
| 老人会による接待 長い歴史を持つ接待講とは異なり、新しく接待を始める集団もある。 西条市禎ず瑞の老人会「共楽会」有志の人々は、六十四番札所前神寺の境内で平成3年から毎年春に接待を行っている。 主婦グループによる接待 松山市の五十番札所繁多寺では、市内の数名の主婦グループが定期的に接待を行っている。 彼女たちは、接待は楽しいものだという。 「接待は楽しいです。私たちが出したお茶を飲んでいただけたらそれだけでうれしいし、さらにお遍路さんに「お接待、ありががとうございました」と言われれると、こちらが「ありがちうございました」という気持ちになります」ここには、肩の凝らない楽しみながら行う接待の姿がある。 小学生が参加する接待 松山市の52番札所太山寺と53番札所円明寺では、地元の和気地区社会福祉協議会が発案・実行しそれに和気小学校児童の希望者が加わる形で、平成13年の秋に接待が行われた。 |
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