四国霊場八十八ヶ所お遍路弘法大師の御心をたずねて
四国八十八ヶ所遍路文化のあゆみ
これは愛媛県発行の遍路文化の学術整理報告書からの抜粋です。
01 四国遍路の起源
02 霊場八十八ヶ所の形成
03 修行遍路から庶民遍路へのみち(遍路の庶民化)
04 八十八ヶ所の霊場番号と御詠歌
05 遍路の多様化と接待
06 明治前期における遍路の衰退(神仏分離令と廃仏涅毀釈)
07 多数度巡礼者(裸足遍路12度)
08 様々な遍路たち
09 遍路の接待
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四国遍路の起源
日本において巡礼という言葉は、少なくとも平安時代前期には使われていた。
巡礼の形式はともかくとして、巡礼という概念は、平安時代にはすでに我が国に入り、それらしい事が行われていたと考えられる。

四国遍路の原形といえる四国の山野を巡り歩く信仰の行を証拠立てる「今昔物語集」と「梁塵秘抄」の二つの史料がある。
ここには「仏ノ道ヲ行ケル僧」、「四国ノ辺地」、「海辺ノ廻地」と「われらが修行せし様」、「しおたれて」、「四国の辺地」、「常に踏む」の部分がある。
これらの史料によれば、すでに平安時代の末期に、四国の海辺を廻るミチがあり、しかも修行僧とみなされる人々が何らかの目的を抱いて長期間そこを廻っていたことがうかがえるのである。

ここで言う「四国の辺地」とは何を指すのか。
海を越えた辺境の地というだけの意味ではなく、四国の海沿いを一巡りするミチと考えられる。

「四国の辺地」「四国の辺土」に修行する人々の間で弘法大師への信仰がより強く意識されるにつれて、もともと辺地の考え方のなかにあったと思われる「ミチ」の観念が次第に膨らんでいって、やがて辺地をを巡るミチ、つまり「辺路」ということばが作り出されたのではないだろうか。
それがやがて「遍路」に変わっていったと考えられる。

当時の都の人々にとって、四国は海を渡らなければならない遠隔の地であった。
しかも中央に四国山脈がはしり、石鎚山と剣山の二つの主峰がそびえているため、山系を横断しあるいは縦断するようなミチの開発は容易なことではなかったと思われる。
四国のミチは海辺のミチから開かれていった、初期においては、けだものの通るミチであったり漁労や狩猟をする人々が通るミチであったと思われる。
そうしたミチを修行者たちが廻り、踏み固めていったものと推測される。

このように古代の旅は苦行であった。
特に都から遠く離れた辺鄙の四国の旅は、想像を絶するような苦しい旅であったと思われる。
そこで止むに止まれぬ内心の切実な信仰的な理由から修行僧たちが旅をしたのである。
四国の辺地はこうした人々によって次第に踏み固められていったものと考えられる。
だが、歴史的にいつごろから始まったということにいおては必ずしも明らかになっていない。




霊場八十八ヶ所の形成
四国霊場は多様な信仰が複合した様々な聖地から成っており、その形成過程においては、様々な信仰が重層的に発展して形成されていったものと考えられる。
必ずしも真言宗派だけでなく、天台宗が4ヶ寺、臨斎宗が2ヶ寺、曹洞宗が1ヶ寺、時宗が1ヶ寺もある。その他にも浄土宗、法相宗、国分寺は華厳宗、また神仏習合のお寺も今も10寺を数えられる。

各霊場の遍照一尊化について現在の霊場では宗派などに関係なく必ず大師堂があり、巡礼者は大師堂の巡拝を欠かさず、霊場の遍照一尊化がなされている。
霊場の遍照一尊化の時期については、文書や落書きから推測すると、室町時代にはその傾向がみられるが、各寺院に伝わる遺品からもある程度それを推測することができるという。

八十八ヶ所の起源については、元禄3年(1690)真念によって刊行された「四国偏礼功徳記」によっても、いつごろ、誰によって定められたかは元禄のころにおいても定かでなかってことをうかがせている。

四国八十八ヶ所という言葉を史料的に裏付ける物としては、高知県土佐郡本川村越裏門字地主地蔵堂の鰐口がある。
この鰐口の銘文には高知県土佐郡本川村の越裏門には、文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。
すなわち村内の八十八ヶ所があることから、これをミニ八十八ヶ所とすると、この時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していたとみられている。

四国の霊地は数ある中で、ながくその数は流動的だったであろうが、それがほぼ固定化したのは室町時代末期のことであったろうと思われる。
そして、それから外れたものが番外札所となり、札所の数とともに、以後さらに 変動を繰り返しながら八十八ヶ所と固定化されていったものだろう。

四国霊場八十八ヶ所の成立した時期は、史料不足のために明確に示す事は困難である。

八十八ヶ所の由来としては
*米の字の分解による八十八からくるもの。
*八塔の倍数に基づくというもの。
*「見惑八十八使」によるというもの。
*三十五仏と五十三仏とを合した数によるというもの。
*男の厄年四十二と女の厄年三十三、子供の厄に当たる十三を合した数によるというもの。

四国霊場八十八ヶ所の八十八をめぐる諸説は、いずれも史料不足で決め手を欠き、推論の域を出ないものになっている。




修行遍路から庶民遍路へのみち(遍路の庶民化)
四国遍路は、室町時代末期に成立したと考えているが、鎌倉時代にその現型が認められ、僧侶、とくに真言宗系僧侶の修行手段として行われていた。
弘法大師の聖地巡礼としての性格から、弘法大師の超宗派的信仰に基づき、やがて真言宗以外の僧侶の参加も見るようになった。
こも風はやがて釈門より俗界に広まり、室町時代後期には俗人遍路もわずかながら見られるようになり、それも四国のみならず、山城、越前の遠隔地からも認めるようになった。

しかし、遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであった。
俗人の遍路の数は、僧侶遍路を越えるものではなっかたといわれている。

江戸時代の中期、元禄年間(1688〜1704)前後から民衆の経済的上昇に伴い、社寺参詣界一般の発展とともに、四国遍路もまた一般庶民の参加が目立つようになり、その数は次第に増加し盛況に向かいつつあったようである。
遍路と関係の深い高野山僧などの積極的な宣伝活動にまつわることがおおきかったといわれる。
天和年間のころ、高野山の真念が四国の山野をめぐり、空海の霊場を踏査すること二十余回に及んだといわれている。
真念は「四国遍路道指南」を出版し一般に対し遍路への注意を喚起させ、広く天下の人々に遍路への関心を高めさせ、四国に旅立たせる機縁の一つとなったものと思わせる。
さらに遍路に関する絵画や書籍が元禄年間前後から著しく増えるのが、当時の遍路の盛行と深いかかわりがあるものであろう。

遍路をする人数を掌握することは今日でも極めて困難である。
四国遍路はことのついでに行われるものでなく、1,500〜1,600kmの長い道程、心洗われるような景勝の美はあっても、目立つ観光地もなく、日々険路を歩み続けなければならない。
道路も悪く、旅宿施設も劣り、自ら食料を購入して木賃宿・善根宿で煮炊きする不便の毎日で野宿も少なくない。
遊山半分で出来るものではなく、内心から湧き立つ真摯な厚い信仰心がなければ、とうてい達成できるものではない。

色々な史料からの推測で、当時の四国の厳しい交通条件を考えれば、年間15,000〜21,000人のの数はむしろ驚きに値しよう。
弱者遍路といわれる、社会的敗残者の乞食遍路、病気治癒祈願の為の遍路、非常に多く実数はさらにこれを上回ることになるであろう。




八十八ヶ所の霊場番号と御詠歌
貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」が発行された。
遍路する者のための案内を意識して四国霊場八十八ヶ所の全容を、まとまった形で一般庶民の前にしめしたのは、この「道指南」が初めてであったといわれている。

この「道指南」に始めて記され、しかも今日までずっと継承されているものがある。
真念は思い切って札所の数も当時流行していた「八十八」の言葉通りに限定してしまい、阿波の霊山寺を1番とし大窪寺を88番とし、それぞれ番号を付けて順序を確定た。
それに自分(自分達かもしれない)が奉唱歌も作って、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成してのである。

真念が「道指南」を刊行したことは、四国遍路を一般庶民のものとして興行させる大きな要因となったものであり、これは遍路発展の上で大きな業績といわねばならない。




遍路の多様化と接待
江戸時代後期には、四国遍路が全般的に上昇傾向をたどるとされる。
そこには、一般庶民をいざなう交通環境の整備が徐々に進んで行き、海路で四国へ入ることのいくつかのルートが作られる。
その後、四国遍路絵図などの各種の絵図が刷られるようになる。

その増大する遍路は大部分が一般庶民、特に農民である。
その中には社会的弱者である女性・子供や零細民はどどともに、乞食等の社会的敗残者がきわめて多いといわれる。
これは他の社寺参拝とは異なり、四国遍路の大きな特徴である。
乞食は古来、種々の巡礼や求道者を装うのが通例であるが、特に四国遍路に乞食が多かったのはなぜか。
弘法大師信仰と関係あることはあることはいうまでもないが、他に旅費が低いことや、四国が温暖な地であるので彼らの流浪に適していたこととが挙げられる。
またこれが重大な事だが、遍路に対する四国人の同情心が格別に篤く、その支援の大なること、すなわち接待のあることがその理由として挙げている。
その他、病人や病気平癒祈願のための遍路が多い事も知られている。

四国路では、沿道などの民衆が遍路に対して便宜を与える、「お接待」と呼ばれる風習が古くから行われていた。
四国路の民衆の間には、請われて物をを恵み、宿を提供する消極的な援助はもちろんながら、積極的に請われずして物を施し、宿泊させる慣行(善根宿)が広く存在していた。

「お接待」の種類としては、
*個人接待で、自宅近くの道を通る遍路への接待や、霊場境内などでする接待。
*霊場近くの村落民による接待。
*四国以外の人々団体で霊場に来て行う接待講などがある。




明治前期における遍路の衰退(神仏分離令と廃仏涅毀釈)
四国遍路は明治に入ると行政当局の排斥政策などのために一時的に停滞する。
その後すぐに盛り返し、明治中期以降には再び盛行の時期を迎えた。

明治前期における遍路の停滞
慶応3年(1867)の大政奉還・王政復古により江戸幕府が倒れて新政府が成立し、日本は近代的な統一国家の建設に向かった。
元号を明治と改元、欧米の文化・制度を積極的に取り入れた明治維新の大変革が始まったのである。
封建制度が崩れて藩境の関所が取り除かれたため、手形なしでどこでも自由に通行できるようになり、その結果、遍路の往来も一層盛んになるはずであった。ところが実際には、明治前期にはむしろ遍路の数は減少して一時期停滞期を迎えることとなるのである。

神仏分離令と廃仏涅毀釈
明治政府が近代国家の出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を取り、天皇の神権的権威のもとに神道の国教化をはかるべく最初に具体化した政策であった。
そのために政府はまず、慶応4年(9月以降は明治元年1868)3月17日付と3月28日付の二つの神祇事務局通達をもって、神道と仏教を厳密に分離することを命令した。
この実行に際して説明的・補足的命令が次々と出されたが、これらの一連の命令には仏教排除の意識が見え隠れするものの、あくまでも第一義的には神仏の分離を目的としたものであった。
ところがこの機会をとらえ、地域によっては、国学者、儒学者や神官を中心とした江戸時代以来の廃仏論や、かって幕藩権力を後ろ盾にした僧侶の横暴・堕落に対する民衆の廃仏感情を背景として、徐々に仏教排斤を目的とした過激な運動の様相を呈し始めた。
政府は、「神仏分離は廃仏希釈に非ざる旨」を出すものの、各地で寺院の仏像、仏具の破却・償却や寺院領に対する土地の没収、僧侶に対する還俗の要求や追放、離檀の動きなどが起こった。
その激しい破壊的行動については明治4年をピークに沈静化に向かい、明治8年までに寺院の廃止・合併もほぼ終了、明治10年の教部省の廃止によって幕を閉じた。




多数度巡礼者(裸足遍路12度)
なんと言っても筆頭は、280度巡礼した(280度目は長尾寺と結願の大窪寺を残した)中務茂兵衛であるが、それ以外にも多くの人達が50度、100度と巡礼している。
江戸期から明治期にかけて、ほとんど歩き遍路で、八十八ヶ所を何十回と巡礼することは容易なことではない。
それをあえてやり通すのは、その理由が何であれ、それだけで遍路行者と呼ばれてよいように思われる。

道休禅師(裸足遍路12度)と山本玄峰(裸足遍路7度)
道休禅師の墓は現存していて、地域の人は「ドウキさん」と呼び慣わしているとのこと。
墓に「弐七編成就五十三歳」とある。貞亭元年(1684)四月七日が命日。
27度のうち12度は、履き物をせず、裸足での遍路である。

明治期に入って裸足で7回遍路した人に山本玄峰(1866〜1961)がいる。
19歳のとき眼病を患い、大学病院で治療4年の後、失明の宣告を受ける。
その失意の中で、救いを求めて諸国業脚に出る。たどりついた四国路で、八十八ヶ所巡礼を裸足で巡礼すること7回、ついに高知の雪渓寺で倒れ、そこで太玄和尚に出会い、仏の道に入った。

芸州忠左衛門(生涯遍路136度)
香川県長尾町大石にある道端の小庵に、卵型の墓があり、それには「四国霊場百三十六度巡拝」と、かろうじて読めるほどの文字が残されている。
文久2年(1862)没だと言う。百度を越して巡拝を重ねて行くうちに、136度の数値が一つの目標になっていったと考えられるのである。

多数度巡拝者番付
明治28年(1895)に発行された「四国辺路多数度巡拝者番付」とも称すべきものが残っている。
その中に書かれているものは下記である。
199度 信州戸隠中村 行者光春
162度 備後国芦田郡町村 五弓吉五郎
137度 山口県大島郡 中務茂兵衛
114度 備中国中村 小野又蔵





様々な遍路たち
農閑期の気候のよい時を選んで行う春季、秋季の季節遍路が圧倒的に多かった。
こういった季節遍路の目的はおおむね、家内安全、先祖の菩提を弔うこと、心身の鍛練などであり、そのほかには社会見学の意味合いもあったろう。
特に春季には、地域によっては成人の通過儀礼としての意味合いを持つ若者遍路、娘遍路が盛んに行われ、ごく少数の例ながら、溝組織による団体遍路の姿もあった。

それに対し、季節にかかわりなしに遍路を巡った「時なし遍路」には特別な心願をこめた遍路が多かった。求道求法の目的を持って遍路を続けた行者である中務茂兵衛、人間関係の苦悩からの解放を願って遍路を行った高群逸枝、四国遍路一万人接待の大願を五十番繁多寺において成就した安田寛明などは比較的著名であろう。
しかし「時なし遍路」の中には、物乞いの遍路や詐欺・泥棒の遍路(実質的にはニセの遍路である)といった、遍路を生活の手段とする職業遍路も存在していた。
また、夏期、冬期に目立ったのは、医者から見離されたような重い病気の平癒を願った遍路であり、足腰の立たない者、眼の見えない者やハンセン病患者などの病人の遍路が、どの札所においても1日数名は必ず来たと言う事である。
これらの人々の中には何度も四国を巡るうちに所持金も尽き果てて物乞い遍路になった者も多かった。



物乞い遍路
冬になると沿道の接待がなくなり、寒さをしのぐ宿もなかったので、11月末ごろから2月までは温暖な高知県の海岸で生活するものが多かった。
中でも米を炊く釜さえ持たない人々は、米を袋に入れ海岸で砂を掘り、その穴に袋を入れてその上に砂を薄くかぶせる。さらにその上で焚き火をして野菜を煮る。その内に袋の中の米が適当な水分を吸収して、塩気のある飯となるのである。
このほか飯の采は漁民から魚を貰ったりしたものをあてるといったぐあいである。
やがて春ともなると北四国へ向かって移動して行くのだが、このような遍路は大正時代にいたっては高知県の海岸には1.000名近くいたといわれている。

病気の遍路たち
盲目の遍路、自分は結核だと言う遍路、よく見かけたのが足腰の立たない遍路。
足腰の立たない遍路にとって、ギブスを身につけ箱車に乗って、家族や縁者、あるいは道筋の村々の人に引かれ、また独力で箱車を引きながら八十八ヶ所もの札所を巡ることは、精神的ににも大きな苦痛をともなうものであっただろう。
苦痛自体が遍路としての行なのであり、苦痛を自ら選ぶことで、その中に報いを求めたのである。
しかしこうした遍路たちの中には、病気治癒の望みがかなわなければ、結局四国の地で行き倒れるしかない者も多かった。
果てしの無い遍路行を続けたあげく亡くなった遍路の例は、近代になっても少なからず見出される。

ハンセン病の遍路
特に四国遍路とかかわりの深い病気は、ハンセン病である。
ハンセン病はらい病とも呼ばれ、神経障害によって顔や手足が変形することから、患者は常に迫害を受けてきた。
かっては先祖からの遺伝病とされていたが、除々に伝染病であることがわかってくると、今度は肌の暖かみが移ると感染するなどどいわれのない偏見の眼で見られ、差別された。
医療技術の進んだ今日では治癒する病気となったが、かっては不治の病とされ、患者たちは弘法大師に救いを求め、最後の望みをかけて四国に渡ったのである。




遍路の接待
1・接待という語
現在、一般的に使われている「接待」という言葉は、人をもてなすという意味である。
日本でこの語の初出例は、鎌倉時代の道元の「正法眼蔵・安居」(寛元3年(1245)に「諸方の接待及び諸寺の旦過みな門を鎖せり」とあるのがそれだとされ、旅人に茶を施すという意味合いで用いられたという。
その後の用例もおおむね同様で、近世に発達した俳諧の世界においても、茶を振る舞うという意味の秋の季語として使えわれたようである。
四国遍路の世界では茶のみにとどまらず、それ以上の広い意味合いを持って発展するころになる。

この接待が四国では「お」をつけて「お接待」と呼ばれている。
お接待は、お四国・お遍路さんなどの呼ばれ方と同じ流れの中で理解され、昔から接待を行う人々は「四国を霊場を尊び、そこを苦行しながら廻る巡礼を、とくにお遍路さんと呼んで大切にもてなす」ために「お接待」習俗として、時代による変換をしながら、根本的な心は継承し、実践してきた。
「お接待」という言葉の中に、接待を行う人々の特別な思い入れを感じとっている。
2・接待の内容
品物を提供する接待
江戸時代からの接待で出された食べ物としては、その場で食するご飯・湯茶・甘酒を始めとして、携行も可能な餅類・漬物・梅干・味噌・入り豆・ふかし芋・ミカン・梨など多種多様なものがあげられる。
また、持ち運ぶのにはやや重いものの、白米の接待も一般的であった。
食べ物以外の物品では、道中でどうしても履き替えが必要な草鞋やチリ紙などの紙類が主で、変わったものとしては弘法大師や四国霊場について記した本の接待(施本)などがあげられる。

さしあたって必要の無い物品を貰った遍路は、遍路道沿いの町で売ったり他の物と交換したりして、遍路行を続けるために役立てた。

平成の現在においての物品を見ると、餅類・ミカン・お茶・ご飯・ふかし芋など昔と同様の接待品に加えて、食べ物ではお菓子や菓子パン、ジュース・などの飲料水が登場しており、食べ物以外ではティッシュペーパー・タオル・巾着袋など、すぐに役立つ旅の実用品が接待されているのが分かる。
また、うどんの接待が多いのは香川県さということであり、そういった意味で接待に地域の特色も出ている。

金銭を提供する接待
これも江戸時代から現代に至る接待である。
今は主として歩き遍路に対し、飲料水代程度、あるいは500円・1.000円を接待する場合が多いようだ。
また、接待品にさい銭として5円玉、10円玉を添えて渡す場合もある。
もっとも、いくら接待だからといって金銭をもらうことに抵抗感を感じる遍路もなかにはいるようでである。

行為を提供する接待
江戸時代によく見られたのが、髪結い(床屋)が札所境内などで遍路の頭髪を整える接待で、こういった整髪の接待は銘じ40年ころまであったという。
同じく、按摩やお灸の接待については、現在もおこなわれている例がある。
交通関係では、江戸時代、川など橋のない大河を無料で渡すいわゆる「善渡し」が知られている。
また、遍路のために遍路道を整備するも、行為による接待といえよう。
遍路道沿いの村々では、病気で行き倒れた遍路に対する接待にも篤いものがあった。
そして、もし病気の遍路が村内で死亡すると、所持する納札などによって住所が判明すれば遍路の故郷へ便りを出したり、遍路の遺体を埋葬して墓を立てたりすることも行われた。


3・接待の人達
個人が銘々に行う個人接待
自宅が遍路道沿いにあって家の前を通る遍路に接待する場合と霊場の境内はどで接待する場合に分けられる。
遍路道沿いの人が沿道に出て通行する遍路に声をかけて接待品を渡したり、あるいは家の戸口に米や麦・大豆などを入れた「勧進箱」あお置き、遍路が来れば一握りずつ取らせるようにしたものである。
日を決めて霊場に出向いて遍路に接待品を手渡す接待もあった。

霊場近くに住む村人たちが集団で行う接待。
日取りや時間、場所などを決めて出向いて行う接待だが、こういう形態の接待について最も古い例は享保年間(1716〜1736)であり、さらに四国全体で広く行われるようになるのは宝暦(1751〜1764)・明和(1764〜1772)の時代ではないかと推測される。

四国以外の人々が団体で接待する「接待講」
四国遍路への接待を行うことを主な目的として結成された集団でsる。
江戸時代から始まるこれらの接待講の活動は現在も脈々と受け継がれている。



4・接待講の活動
有田接待講
和歌山県の有田市・有田郡全域と海草郡下津町小原地区の人々によって構成され、毎年春に紀伊水道を渡って徳島県鳴門市の一番霊山寺で接待を行っている。
接待講の活動が開始されたのは文政元年(1818)といわれている。
有田市を流れる有田川の源流は高野山へと通じており、四国遍路を終えて高野山へ向かう大勢の参拝者が有田の地域を通っていました。この地域の人々は、古くからそういうお遍路さんに食事を与えたり宿泊させたりしていたのです。
このようにこの地方にはもともと接待の土壌があり、その中から有田接待講の組織的活動が始まったといわれています。

野上接待講
一番霊山寺境内で接待を行う講として、有田接待講とともに野上接待講が知られている。
和歌山県の野上町・美里町・海南市の人々が中心で、その始まりは寛政元年(1789)といわれている。

霊山寺境内の接待所は、最初は天保13年(1842)に建てられたとされ、その後の建て替えは両接待講が資金を出し合って行われた。
まず、野上接待講が3月の彼岸残後に接待を行い、続いて有田接待講が4月に接待を行うをいうように、順番に使い分けがなされている。

紀州接待講
この接待講は徳島県日和佐町にある二十三番札所薬王寺で接待を行う。
この接待講は高野山に近い和歌山県かつらぎ町や橋本市など紀ノ川上流の人々が中心であるが、それにとどまらず紀ノ川筋のほぼ全域を含み、最上流の奈良県五條市辺りから最下流の和歌山市まで広範囲におよんでいる。
紀州接待講の始まりは、江戸時代後期の18世紀後半から19世紀前半と考えられる。
紀州藩主徳川家の許可を得て始まり、さらに薬王寺の門前の土地を借り受けて、藩主の命令で木材を紀州から運搬して接待所を建設したということである。
現在は、3月27日から4月5日まで10日間の接待を行っています。

その他の接待講
香川県善通寺には仲南町からやってくる接待講
甲山寺には岡山県倉敷市から道越講・道口講という二つの接待講がやってくる。
道隆寺には岡山県の数ヶ所や広島県尾道市から団体で来る。


5・地域の人々による接待
老人会による接待
長い歴史を持つ接待講とは異なり、新しく接待を始める集団もある。
西条市禎ず瑞の老人会「共楽会」有志の人々は、六十四番札所前神寺の境内で平成3年から毎年春に接待を行っている。

主婦グループによる接待
松山市の五十番札所繁多寺では、市内の数名の主婦グループが定期的に接待を行っている。
彼女たちは、接待は楽しいものだという。
「接待は楽しいです。私たちが出したお茶を飲んでいただけたらそれだけでうれしいし、さらにお遍路さんに「お接待、ありががとうございました」と言われれると、こちらが「ありがちうございました」という気持ちになります」ここには、肩の凝らない楽しみながら行う接待の姿がある。

小学生が参加する接待
松山市の52番札所太山寺と53番札所円明寺では、地元の和気地区社会福祉協議会が発案・実行しそれに和気小学校児童の希望者が加わる形で、平成13年の秋に接待が行われた。

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