お遍路さんの道しるべ、その2
遍路の道しるべを建てた人達
僧真念
真言宗の僧で大阪西浜町寺島の生まれ、宥井とも言い、高野山光院寂本の指導を受け貞亭(1684〜1687)から没年の元禄4年(1691)頃までの活躍がめざましい。
四国霊場の巡礼は、二十数回に及ぶ、その間に「四国中まぎれ道が多く遍路が道で難儀しているのを見て、十万の喜捨を集め200余基の道しるべを立てた」という記録がある。
真念の道しるべの特徴は、梵字、南無大師遍照金剛、左右の方位をしめして遍路道を刻んでいること、また彼の悲願であったのだろう「為父母六親供養」の文字を入れたものもある。
四国遍路のガイドブック「四国遍路道指南」を刊行している。
更に「四国遍路功徳記」を著し、寂本の著書「四国巡礼霊場記」の資料を提供している。
さらに、泊まる宿が無く難儀しているところに遍路宿を建てるなどの慈善事業をした。
54番延命寺境内 59番国分寺近く
写真は次
愛媛県には5基の道しるべが残っています。
その内の3基が今治市に有ります。あと1基はこれから探します。
(誰か教えて!!)

武田徳右衛門
越智郡朝倉村上乃村の生まれ。先祖は地元の龍門城の城主武田勝公とか。
当時は天領の大庄屋につかえて平穏な生活を送っていた。ところが、天明元年(1781)から寛政にかけての11年間に6人の子供が次々に死に、最後に長女一人残るだけの境遇となった。
徳右衛門は、住職の勧めもあって以後仏門に帰依して毎年三回をめどに四国巡礼の旅をした。
巡礼途中何度か道に迷ったであろう。その頃、道しるべも所々に有ったが、里程が書いていないことへの不便さを感じたのである。
寛政6年(1794)に道標建立を初願し一国に3年づつかけて12年間で大願成就されたようである。
こうした子供を愛する強い心と信仰心のおかげがあったのだろう、長女おらくは養子を迎え、今もその子孫は健在であるという。
彼の道しるべの特徴は梵字の下に大師像を刻み「是より横峰まで六里」と里程を示していることである。
54番延命寺境内 58番仙遊寺参道 59番国分寺境内
写真はは次

中務茂兵衛
茂兵衛は山口県周防郡大三島椋野村の生まれで、慶応2年(1866)22歳の時、家を出て遍路をし、死ぬまで故郷に帰らなかった。
約60年間も歩いて遍路の旅を続け、280回も巡礼をした空前絶後の記録を持っている。
その間に、彼の立てた道しるべは220基ともいわれ、まさに生涯を遍路に捧げた人と言える。
茂兵衛の道しるべの特徴は巡拝数を記した巡拝塔と供養塔を兼ねていること。
また、和歌や俳句を添えたものが35基残っている。
「迷う身を教えて通す法の道」の添句が何基かあるが、手印をつけて「あなたの行く道はあちらですよ」と道案内をしている茂兵衛の心情が伺える。
54番延命寺駐車場 阿方三叉路 59番国分寺近く
俳句などが書き込まれている

静道尚信
静道は、今治市城下の鍛冶屋町の生まれで幼名は良之助、成人して静道と名乗った。
31歳から58歳で没するまでの27年間に35個、12種類の石造物を建立している。
但し、色々な名前を使っているため異人と間違えられ易い。
三好保治氏の発表によれば、寛誉静道も雪露庵静道も金吉屋静道も同一人物あるとのことである。
静道の墓石は南光坊と幡勝寺にあり、いずれも添句している。
なお、金吉屋というのは静道の本家筋にあたるそうだ。

豊かな心を持った里人たち(今治市近辺)
小泉にある道しるべは今治で五本の指に入る立派なものである。
天保15年に小泉村上所の人たちが建立した。
作礼山道の道しるべの中にも、大野中、新田中などの刻印が見える。
舟形地蔵石の八町と刻んでいる道しるべには「八町村中」と刻んでいる。
江戸時代の後半、心豊かな里人たちが、訪れる巡礼者への暖かい思いやりから建てたものであろう。

遍路とお寺の見所 巡礼の心得

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