| 立ち読み毎日 No・7 不定期刊 11月22日(1997年) 発行者:立飲み毎日のひらひらさん |
| 勝手に、立ち読み毎日を発行しています。・・・・・・無料です。 前回から、日付が入っています。今回のテーマは火吹き竹・・・・のつもりでしたが ちゅーりんがみになりました。(火吹き竹は、また今度。) 酒の冷や 妻の姉夫婦のマンションのリビングで、妻の姉の夫と酒を呑みました。私にとっては義兄です。昭和12年の神戸で生まれで神戸で育ち、大学は文学部美学科、繊維関係でマーケティングやってきて、絵というかデザインの才能がある私より12歳上の都会センスの義兄です。漁師町に生まれた私は、宝塚育ちの妻とは色や形の感性については全く違います。妻は義兄の感性には尊敬に近い信頼をおいてます。私も、雲の上とは言いませんが、霞の向こうのいる人間に思えます。(娘は、私のドロクサイ感性をも持ってるような気がします。)義兄は、ひとまわり上ですから、同じ丑歳です。(普段は、Nov.22th.'97と西暦で書きたがるくせに、こんな時は、昭和何年の干支は・・・・と言ってしまいます。)妻や、妻の姉の二人は、名字の酒井サカイ の酒シュからきたシュン・チャンと呼んでます。私には、そんな気安い名前では、とうてい呼べません。私たち夫婦のサンフランシスコへの結婚旅行の帰りに、お祝いとして、ホテル・ニュー・オオタニの一泊をプレゼントしてくれました。ホテルに入る前には、どこだったかまったく覚えていませんが、ギュッとしぼったレモンを生のカキにかけて食べる料理で酒を飲むというようなところにも連れていってもらいました。私たち夫婦は、日本で結婚式をあげたあとで新婚旅行でアメリカ西海岸に行ったのでなく、当時サンフランシスコに住んでいた妻の弟の家に立ち寄り、ヨセミテという山の中の公園の滝の水での杯が三三九度でした。結婚というめでたい場を、水杯ミズサカヅキという別れの儀式で祝ったことになります。水杯のあと、ケガレを払うためではありませんでしたが、ちゃんと、酒も飲みました。日本酒ではなく、ポール・マソンというカルフォルニア・ワインのロゼでした。このワイン、ホントにうまかったですよ。独身としては飲み納めですから、独り身としての末期の酒かと思いました。でも結局、結婚生活での飲み始めの酒になり、以降まったく紆余曲折なしに酒をのんで現在に至っております。(妻よ、許せ。) 義兄は○○コニャックの○○年モンはどうか、とすすめてくれますが、私は日本酒がいい、と言います。(そんな年代物の西洋の酒、僕、味わからん。)それに私の場合、日本酒でいい、では無く、日本酒がええ、なのです。冷蔵庫で冷やした小さい瓶の地酒を、冷凍庫で冷やしたグラスで飲みました。やがて二人とも一升瓶の酒を冷やで飲みだします。最近は、冷や酒を頼むと冷蔵庫で冷やした冷酒レイシュが出てくる、日本の酒の文化は冷や酒から始まってるはずや、酒の冷やを頼むのに、常温の日本酒と言わなあかんのか、ヴァン・ジャポネ・シャンブレ(室温の日本ワイン)とでも注文しろと言うのか・・・・こんな話をしょうと思ったら、あまり日本酒を飲んでこなかった義兄のほうから、俺は実は、冷や酒というのは、冷やした日本酒やと思てたと話しだした。でも今は、和食には冷や酒に合う料理と、燗した酒に合う料理がある・・・・。(しまった、こちらが話す出番を失った。) 阪神大震災の時、義兄の父親は六甲アイランドの病院に入院していました。義兄の父親の身体についていた医療機器も停電の為、停止しました。けっして、停電のためだけだったとは思いませんが、義兄の父親はその後亡くなりました。神戸が揺れたあとすぐさま義兄は伊丹空港に降り立ち、魚崎の家まで歩いて行きました。義兄の母親はつぶれた家で、たまたま通りかかった人に助け出されて無事でした。2年過ぎ、横浜に息子・娘の4人家族だった義兄が、自分の生まれた神戸にではなく、義兄の妻の実家がある宝塚の賃貸マンションに引っ越してきました。そこに義兄は、自分の妻と、義兄の母と住んでます。義兄の息子は関東でひとり住まい、義兄の娘は関東の人と結婚しました。 義兄の母親が料理を作っては、自分の息子の親類のひとつである私の妻にも持たせてくれます。豆を煮たり、魚をたいたり。 妻の姉の義母・・・・なんと呼んだらいいのでしょう。妻は自分の父親をおじいちゃんと呼び、姉の義母を魚崎のおばあちゃんと呼びます。 漁師町に育った私には、関西の煮物は時に甘すぎると感じることがあります。でも、魚崎のおばあちゃんのイワシの煮つけは、砂糖やミリンをおさえた素朴な味で、私は一度に10匹食べてしまったことがあります。 ちゅうりん・がみ・ぷれぜんとお 呑んで義兄の話しを聞いていると、こちらはもともとアルコール依存症というかアル中です。こちらもしゃべります。もともと、「しゃべり」ですから。でも、ファッションやマーケティング以外にも話題豊富な義兄には、しゃべり負けします。殆ど聞き役にまわりました。(悔しい。) 最近、アルコール中毒症、アル中と言わなくなりました。大学新入生が、「イッキ飲み」で「急性アルコール中毒症」になって・・・・・・、両親が大学に対して訴訟を・・・・、という具合の時にだけ、やっと「アル中」が登場します。私は、依存症という言葉で精神病としてのアルコール依存症を警告する医者の考え方は認めます。あんた呑むのはええけど、たいがいにしときや、今のあんたの呑み方やったら、そのうちアル中になりまっせえ。アル中というほうが、なんとなく恐い響きがあって、効果がありそうな気がします。うるさぁーい、呑みたいから呑むんや、ほっとけぇ、ワシの勝手やぁ。うーん、あまり、効き目はないか。酒呑み漁師の父親の血を、ちゃんと私は継いでしまってます。 義兄が話します。イタリアの空港の税関ではまいった。常備薬とした持ってた正露丸が怪しいと別室に連れて行かれた。これは、セイロガンという日本の民間薬だと、ナンボ説明してもアカン。義兄は英語・フランス語以外に、東京弁と関西弁とそして神戸弁を使い分けます。私が茶々をいれます。ロシヤでなくて良かった。私にとっては、ラッパのマークの 征・露・丸 です。いや、ロシアだったら簡単だった、正しい露国で正露丸と説明したら良かったから、義兄が茶々に応じます。 妻の姉がマンションに戻ってきて、義兄は名字でなく、おにいさんと呼んで欲しいらしいよ、と私に告げて、また出て行きます。 昭和12年生まれの義兄ですから、戦争を経験しています。戦後の幼い頃の話もしてくれます。焼け野原の神戸で、進駐軍の兵士からもらった軍隊食のセットの中身を語ってくれます。そんな事に興味があるのでちゃんと聞いたつもりですが、酔っぱらってた私は今は思い出せません。でも、進駐軍相手に「チューリンガミ・プレゼントォ」と言うた。チューインガムでなくチュー・リン・ガミ、プレゼントではなくてプレゼントォと語尾を伸ばすんやで、と説明する義兄に、にいさんと呼び掛けたくなりました。私の頭には、ちゅうりん・がみ・ぷれぜんとお、ひらがなで残ってます。ギンミ・チョボクレ(Give me chocolate)は野坂昭如の「あめりかひじき」だったと思います。妹尾河童の「少年H」をまだ読んでないと言う私に、にいさんが貸してやると言いますが、自分で買って読む事にします。 私は阪神大震災と伊勢湾台風出会ってますが、戦災は経験していません。でも、ちゅうりんがみ・ぷれぜんとお、で義兄と戦災を共有したような気がします。 |
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