熊本城
築城者:加藤清正
所在地:熊本県熊本市本丸町
用途:平山城
竣工(築城):1607年(慶長12年)
天守・櫓等焼失:1877年(明治10年)
天守再建:1960年(昭和35年)8月31日
馬具櫓再建:1966年(昭和41年)
西大手門再建:1981年(昭和56年)
数寄屋丸二階御広間復元:
1990年(平成2年)
構造:
天守-鉄骨鉄筋コンクリート造
宇土櫓-木造瓦葺
規模:
大天守-地上6階、地下1階
小天守-地上4階、地下1階
宇土櫓-地上5階(外観3層)、地下1階
撮影カメラ:
デジタルカメラ(334万画素) SONY(DSC-P1)
HP作成日:2002年10月19日
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熊本市の中心部、茶臼山と呼ばれる洪石大地に展開する威風堂々たる城郭群。
(写真左)小天守、大天守の勇姿! ただし昭和に外観再建されたもの。 鉄筋コンクリート造。
(写真右)現存の宇土櫓。 櫓だというのに堂々たるもの。 カラ掘りのため高さ効果も手伝い迫力があります。

戦国期の肥後の国は当初「隈本」と記され、出田・鹿子木氏、佐々成政と城主が移り変わり、加藤清正の時代に現在のような大規模で堅固な城郭となり、名前も「熊本」と改められました。
明治初期は陸軍鎮台が置かれ、神風連の乱、西南戦争といった不平士族の反乱の舞台にもなりました。
特に西南戦争における天守のナゾの出火・焼失は有名な話。 西郷隆盛率いる軍の攻撃前に火災が発生し、天守ほか大部分が焼失します。 官軍側がわざと焼いたとか、失火であるとか、はたまた西郷軍密偵の放火であるとか、現在でも明らかではありません。

大小天守の様子。
石垣の極端な扇形勾配が見事。 寄せる敵が登るほどに反りかえり、武者返しの役割を果たすためという説など様々ですが、戦略的に本当にこれが有効なのか疑問とする声もあるようで本当の理由は分りません。

「天守閣内部」
天守は外観再建の鉄筋コンクリート造であり、内部は展示スペースとなっています。 無骨な階段など当時の面影はありません。
(写真左)エントランスの吹抜と階段。
(写真中央)最上階の展望室。
(写真右)鉄筋コンクリートの吹抜階段。

「宇土櫓内部」
現存する貴重な遺構であり、木造の急勾配階段など当時の城郭建築の様子をうかがうことが出来ます。 老朽化が激しいらしく、壁の所々に補強のためのブレースが見られました。
(写真左)櫓内部の様子。
(写真中央)急勾配の階段。
(写真右)五層目にある天守。
外観も立派な姿の宇土櫓ですが、もともと小西行長築城の宇土城天守を移築したものといわれ、そのためこの名があります。 大小天守に比べて直線的な屋根、反りのない破風など、その様式の違いが明かに確認できます。

「数寄屋丸二階御広間」
宇土櫓の南側に位置する数寄屋丸、水平に伸びる姿が印象的。 茶会、能、連歌など文化的遊興の間であったと言われています。
平成に復元された比較的新しいもので、内部は畳の敷き詰められた大広間があります。 おそらく当時の姿を忠実に再現したのでは無く、今後も文化交流などでの活用を目的として建設されたという感でした。

(写真左)平櫓。
(写真中央)東十八間櫓・北十八間櫓。
(写真右)五間櫓。
城郭内に残る巨大な石垣群、櫓群も勇壮で、非常に見応えがあります。 なかでも東北側の平櫓、五間櫓、東十八間櫓・北十八間櫓は見事!

「長塀」
城の南側に長く長く延びる塀。 240mあまりの長さがあり、国内最大規模とも言われています。

(写真左)監物櫓。
(写真中央)不開門。 城の東北側に位置し、鬼門とされる。
(写真右)井戸。 籠城に備え、当初120余りの井戸があったそうです。

城郭内は多くの緑で覆われ、広大な芝生の二の丸広場など、市民の憩いの場となっている感じです。
他、周辺道路について、もともと堀だったのをそのまま今日まで形が残り利用しているような部分もあり、高さのある石垣に挟まれ実にダイナミック。
高さ方向にも変化のある道路は、もともと戦略的要素から生まれた城郭、入り組んだ分りにくさをそのまま受継いでおり、訪れるたびに何度も迷いました。
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