伊予松山城
築城者:加藤嘉明
所在地:愛媛県松山市丸之内
用途:平山城
竣工(築城):1627年(寛永4年)
天守閣落雷焼失:1779年(安永8年)
天守閣再建:1835年(天保6年)
三ノ丸全焼:1870年(明治3年)
二ノ丸焼失:1872年(明治5年)
小天守・南北隅櫓・多聞櫓焼失:1933年
乾門ほか焼失:1945年(昭和20年)
馬具櫓再建:1958年(昭和33年)
小天守・南北隅櫓・多聞櫓再建:1968年
筒井門再建:1971年(昭和46年)3月
太鼓門再建:1972年(昭和47年)
太鼓櫓再建:1973年(昭和48年)3月
天神櫓再建:1979年(昭和54年)
乾門同東続櫓再建:1982年(昭和57年)
艮門同東続櫓再建:1984年(昭和59年)
巽櫓再建:1986年(昭和61年)
太鼓門西壁再建:1990年(平成2年)
天守閣構造:木造
天守閣規模:5層6階(初築)、後に3重3層地下1階(改築)
撮影カメラ:
デジタルカメラ(334万画素)
SONY(DSC-P1)
HP作成日:2002年3月9日
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松山市街のほぼ中央、標高131.7mの勝山山頂にある平山城で、姫路城、和歌山城とともにわが国の三大連立式平山城のひとつとされます。
白亜の連立式天守閣など大部分が江戸時代の建築で、21棟が国の重要文化財に指定、昔の姿をよくとどめています。
天守は当初五層六階だったようですが、あまりにも大きいということで幕府の顔色を意識したからか(?)、三層天守へと改築されます。
よって全体は低く抑えられ、のっぺりとした印象。 しかし山頂に広がる城郭の姿は実に雄大で、おそらく四国一の規模ではないでしょうか。

築城は関ヶ原の戦いで功を挙げた加藤嘉明公により始められ、本丸は1605年(慶長10年)6月に完成、全工事は1627年(寛永4年)まで続きます。
領主は江戸幕府の領地替により加藤嘉明→蒲生忠知→久松松平家と代わりました。

(写真左)大手門跡。 お城の創建とともに築造されたもので、現在は石垣が残るのみ。
(写真中央)戸無門。 本丸大手の正面の固めとなる門で、昔から戸が無いのでこの名があります。
(写真右)筒井門。 本丸大手の正面の固めを構成した門。 昭和46年3月の再建。

(写真左)太鼓櫓。 大手の重要な拠点となる2層隅櫓。 昭和20年7年に焼失、昭和48年3月に再建。
(写真中央)太鼓門〜西塀。 太鼓門を側防し、筒井門からの侵入を防衛した塀。
(写真右)井戸。 城郭の飲料水として使用された井戸です。 直径2m、深さ44.2m。


天守までの道程には数多くの門、櫓が存在し、防御能力の高さを物語っています。
一〜三ノ門は何れも1784年(天明4年)落雷により天守閣と共に焼失、1854年(安政元年)に再建されたものです。
(写真上段左)一ノ門。 脇戸附の高麗門で、本壇の入口になるのでこの名があります。
(写真上段中央)二ノ門。 本壇における2番目の門で、薬医門の形式を持ちます。
(写真上段右)三ノ門。 本壇における3番目の門で、高麗門の形式を持ちます。
(写真下段左)乾門〜東続櫓。 西側に位置する櫓門。 昭和20年7年に焼失、昭和57年11月に再建。
(写真下段中央)筋鉄門〜東塀。 脇戸附の櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名があります。 昭和8年放火により焼失、昭和43年再建されました。 東塀は一ノ門南櫓、一ノ門、小天守閣を防衛する役割を果たします。
(写真下段右)内門。 天守閣の西側に位置し、仕切門との間は枡形となっています。 写真右手に見える開口は穀倉の入口で、現在は天守の入口となっています。 上の櫓は天守閣と玄関多聞の通路ともなっています。 昭和8年放火により焼失、昭和43年再建されました。


(写真上段左)天守閣最上階。 松山市内を一望できます。
(写真上段右)十間廊下。 桁行が十間であることからこの名があります。 天守の西側にあるからめ手、乾門方面を防衛する重要な櫓で、北隅櫓と南隅櫓を連結する通路でもあります。 壁には鉄砲の狭間(さま)が見られます。
(写真下段)天守内部の様子。
松山城は大部分が現存の建造物で、戦後は焼失した門や櫓も積極的に再建されています。 それらは鉄筋コンクリート造ではなく、当時の資料を元に木造で進められ、当時の様子を偲ぶことができます。
大手門などがまだ未完ですが、城郭の完全な姿が整うのも時間の問題かもしれません。
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